めくるめくメルク丸

行為は無為よりも、ほんの少しだけ優れてゐる。(ヴァガバッド・ギーター)

ムーンワールド再訪記(3)〜タオとの対話〜(改訂)

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今朝、うとうとしながらムーンワールドのことを考えていました。

はたして、あの世界は、僕が眠っている間も「存在」するのだろうか?

そんな子供じみたことに思いを馳せていた。

でも、その問いは本当に「子供じみて」いるだろうか? 

僕には、「僕がコントローラーを握っていない時、あるいはプレステの電源を切っている時、ムーンワールドは存在しない」と言い切ることはできない。

でも、「ムーンワールドはいつだって存在する。」と言い切ることもできない。どっちつかずである。初プレイから20年経った現在でも。

たとえば午前6時半、僕がこうして「うつらうつら」している間、ムーンワールドのあの住民たちは、僕の存在や意識やらとは無関係に、城下町を動き回っているだろうか? モンスターたち(の死骸)は僕にソウルキャッチされる瞬間を、宵闇の中、まんじりともせずに待っているだろうか? 

こちらの「午前6時半」というのは、ムーンワールドでは何時頃にあたるのだろう?「時差」のようなものは当然、あるだろうな。

当然?  僕が横たわっているこの部屋とロンドンと北極との間には「時差」は存在する。だが、ゲームの世界とこの場所の間に時差はあるのか? 

タオ「お前さん、しっかりせいよ……」

それはおなじみの白犬だった。最近は、夢うつつの時にカーテンの裏側からひょいと現れ、時おり僕に喋りかけてくる、真っ白い、人間の言葉を喋る犬。日本生まれだけど、秋田犬なのか土佐犬なのか山形犬なのかまるで判別できない。ソフトバンクのお父さん(秋田犬)には似てないし、僕が先日まで通い詰めていたペットショップの白柴にも似ていない。いかにも素朴きわまりない外見だけど、少なくとも僕よりは頭良さそうに見える。

「どうして、ありえないのさ?」と僕は問う。まるで幼子のように(お許しあれ、半分眠っている時、僕はかなり幼児的になるのです)。 

「それはな……」と、タオは勿体ぶったように話し始める。

タオ「ムーンワールドはお前の居る世界と『地続き』ではないからだ。お前の大好きなムーンワールドは、こことは独立した、言って見れば別世界・別次元にある。」

別世界・別次元って、具体的にどこさ? と僕は問う。 

タオ「指で指し示せ、と言われたら……まあ、そこだな。」(そう言って、僕の部屋に鎮座ましましている僕のプレステ3を指さす)

ムーンワールドはプレステ3世界の中にあるわけ?と僕は再び問う。

タオ「とりま、そういうことにしておきな」

「とりま」って? どういうこと? と僕はしつこく追求する。

タオ「はいはい。お前さんが何処って問うからそのように答えただけであって、正確にはムーンワールドはプレステの中にあるんじゃない。」

じゃあ、教えてよ!僕は本当の本当が知りたいんだ! 無垢な5歳児のようにわめきたてる僕。

タオ「ムーンワールドは……『moon』ディスクの中にある。」

それもウソだろ?

タオ「どうしてそう思う?」

「ムーンワールドがディスクの中にある」なんてのは「プレステ3の中にある」というのとおんなじくらいウソっぽく聞こえるよ。だって本質的には同じことじゃん。ハードの中だろうがソフトの中だろうが。

タオ「お前さん、最後までmoonやったんだろ?」

もちろんやったよ。でも、それでもmoonがディスクの中にある、とは思えないんだ。エンディングを見た後でも。

タオ「じゃあ、何処にあると思う?」

……うーん、ここ。(と言って、自分の頭を指さす)かなあ。

タオ「なるほどなあ。」

当たり?

タオ「半分当たってて、半分間違っているかな。」

そういうはぐらかしみたいのはやめろよ。じゃあ、全部当たってるのはどこさ? あ、わかった、頭じゃなくて、こっち(と言って胸を指さす)? 心ん中。イデア界、みたいなとこ。

タオ「それも半分当たってて、半分違うような気ぃする。」

じゃあ、頭と心!現象世界と象徴世界!イデア界とメタファー界!

タオ「やけ起こしなさんな。しかも、お前さん、まだ再プレイ中だろうが。とにかく最後までやんなさい。それで、またよく考えてみるといい。ムーンワールドが何処にあるのか? ……今どき、小学2年生でもそんな子供じみたことは言わんだろうよ。さて、俺はそろそろ行かなきゃならん。また来週な」

待って、じゃあ、最後にこれだけ言わせて。

タオ「……どーぞ」

僕は今、こう感じてるんだ。

僕がゲーステ、じゃない、プレステ3の電源切って、こうやってベッドに寝ている時も、あるいは外に働きに出かけている時も、フローラはお花屋さんでうっとりしながら花を並べてて、山猫亭でケンジとクリスちゃんは1日1人しか来ないお客を待ってるんだけど、ほとんど言葉を交わさなくて、フローレンスは森でキノコ探して食べてぶっ飛んで、ベイカーはしかめつらしい顔で朝からパン焼いてて、ガセは噴水の前で酔っぱらってて、ヨシダは小難しい本抱えてすばしこく歩き回ってて、ワンダは1日中カウンターから出ずに時々ため息ついてて、目の前でイビリーがぶつぶつ言いながら酔いつぶれてて、おばあちゃんはロッキンチェアで愛しい孫のこと考えながら昼寝してて、タオは夜中になると散歩がてら骨くわえて走り回ってて、王様は毎晩自室で危険な妄想しながら絵を描いてて、ガマカツさんは河べりで悠々自適にキャンプしてて、スナフキンみたいなギター弾きは山の上で稼いだコインを数えてて、フレッドは勤務中でもちっちゃい声でボヘミアン・ラプソディ歌ってて、バーンはブラック・サバスさながらの長ったらしいギターソロをコピーしては悦に入ってて、勇者は罪のないモンスターをばっさばっさ殺して……

タオ「そんなお前さんにぴったりのゲームがあるぞ」

何?

タオ「飛び出せ どうぶつの森

……ぶつ森なんて、やりたくないよ。月曜になったらまた『moon』やる。f:id:lovemoon:20180420202343j:plain

タオ「おやすみ」

※今朝、タオにそう言われたことを思い出したので追記した。

ムーンワールド再訪記(2)

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3日め。

前回/前々回は、ムーンワールドにおけるいささか観念的な考察ばかりだった気がするので、今日は素朴なプレイ雑感をつらつら記していきたいと思います。

『moon』を久方ぶりにプレイして驚いたのは、これだけ思い入れの強い作品にもかかわらず、自分が細かなことごとを(想像していた以上に)忘却してしまっていること。ゲームを進めるために必要な、モンスターのソウルキャッチ方法や住民たちのイベントもずいぶん忘れている。記憶に残っているのはおおまかなマップと、登場人物たちの行動パターン/関係性くらいか。

そして、この世界が以前プレイした時よりもずっと狭く、「こじんまり」と感じるのはまあ、無理もないだろう。moon発売からきっかり20年、ゲームなるものは加速度マシマシで進化し、こちらはどこまでも広がっていくマップの、どこまでも緻密になっていくRPGをずいぶんプレイしてきたのだから。

でも、ムーンワールドにおける「時間感覚」。それだけはばっちり自分の内に残っていた。時間の流れとアクションリミット(行動可能時間)がキモになるこのゲームにおいては、時計と自分の移動速度の把握が(少なくとも序盤においては)かなり重要になる。

住民達から「ラブ」(レベルを上げるための経験値)を得るにはこのリミットを出来る限り長くする必要があるので、ラブレベルを早めに上げていった。できるだけ効率的に、でもそのプロセスをよく吟味しながら。

手っ取り早いのはモンスターたちのソウルを回収、もとい、キャッチ!していくこと。とくに序盤はイジワルな仕掛けはない。街の住民たちへの干渉は行動可能時間が増えてからに留めておき、ひとまず祖母の家を拠点にし、遭遇できる範囲のモンスターたちのソウルをひとつひとつキャッチしていく。こまめに帰宅し、ラブレベルを上げていく。ああ、懐かしい。「あの頃」の感じが戻ってくる。

 

レベル5くらいになると、24時間くらいは眠らずとも大丈夫な身体になるので、南東にあるニッカさん宅を目指す。ニッカさん(冒頭写真)は「自らが心のままに進むべく道」を目指すため、彼と相棒ポッカが長年暮らした家を主人公に無料で貸してくれるのだった。

現実世界でもそうであるように、人は自分の家(部屋)を手に入れた時、自分の中にある、もうひとつの時計が動き始める。その時計をすっかり自分のものとするには、住まいと、もうひとつ必要なsomethingがある。

音楽だ。

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『moon』において瞠目すべきシステム「Moon Disc」。

これはバーンの路上店舗(名前はヘヴィメタ雑誌の「BURN」、LPやCDの「盤」をかけているのだろう……などと記すのは野暮であろう。まるで90年代の個人レコード店のように雑多なジャンルの楽曲が売られている)でDiscを購入し、好きなようにプログラムし、再生することができるシステム。沈黙が好きなプレイヤーは何も買わずにBGMのない旅を楽しんでも良いし、あるいは自分の気に入った1曲を延々再生してもかまわない。

この画期的システムは、現在においてはそこまで珍しいものではないかもしれないが(とはいえ、思ったより定着していないように思う)、当時はとてつもなく素晴らしく感じた。「手抜き」と感じるプレイヤーもいたかもしれない。でもゲーム内BGMをプレイヤーに委ねる懐の深さとともに、派手ばでしい音楽によって物語を色付け、牽引してきた既存のRPGに対するインパクトのあるカウンターとして、「戦闘廃止」と同様、この作品を強く印象づけていたように思う。

※ただし、この自由闊達なシステムを誇る『moon』においても、いくつかの場面においては、製作者の決めた音楽(あるいは無音)を避けることができないことだけは明記しておきたい(「祖母の家」「城内」「テクノシティ」他)。「さすがにここではこれを流したい……」という製作者の譲れぬ主張が感じられる。そして、その判断は概ね正しかったように思える。

 

また、『Moon Disc』で聴ける多種多様な音楽と、『moon』が発売された90年代当初のクラブカルチャーシーンを切り離して考えることは難しい。

当時、東京都内のクラブで感じられた雰囲気(横文字にすればアトモスフィア)とこのムーンワールドに流れる音楽、さらに言えば、このゲーム全体に通奏低音のように流れる空気感は、当時のサブカルチャーと大きくリンクしていたようにも思う。とはいえ、90年代当時のことなど何も知らなくとも、すっかり忘却してしまっても、『moon』というゲームの功績が減ずることは決してない。時代の空気をどれほど色濃く反映した作品であっても、時代性とは無関係に人の心に残ることができる。そう言い切ってしまいたい。そのテーマが普遍的なものであれば。

では、moonの普遍的テーマとは? それについては後ほど改めて考えてみたい。

今晩はMoon Discを聴きながら眠ります。

個人的好みで恐縮ですが、僕がmoonをプレイする際、今も昔も外せない4曲とともに。

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シンセのイントロが流れ出すと、「俺のmoon」が始まった感じ、ひしひしする。

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20年前も『I'm waiting〜』に続けてかけていたこの楽曲は、夜のムーンワールドによく合う。

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静かな心持ちでプレイしたい時、延々と流していたいカーム・チューン。

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これも荘厳で素敵な曲。僕のハンドルネームはこの楽曲から取っていて……というのはウソですが。

今日も雑多な内容になってしまいました。先は長くもないけど短くもないだろう。

おやすみなさい。

ムーンワールド再訪記(1)

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珍しく、夜更けにコーヒーを飲んだらすっかり眠れなくなってしまった。

すでに、床に着いてから7時間が経過している。『moon』になぞらえて言うなら、「アクションリミット」が4分の1以上強制的に増加させられたような状態。眠れない時に眠れないのは(ご存知のように)もう、とても辛い。もう、陽が暮れたらコーヒーは飲まんぞ……と、生涯50回めくらいの誓いを立てた。

そうして横たわったまま『moon』について考えていた。

昨日、僕は「主人公は、ムーンワールドに落下した時点では霊のような状態(視力を失いかけている者や動物しか認識できない)であり、祖母に孫の服を着せられた時、ムーンワールドにおいて『透明な少年』という実体を得たのだろう」と推察した。

しかし、思い出してみると、その認識は正鵠さを欠いていたようだ。

主人公は、ムーンワールドに落下した時点ではまだアクションリミット(左上の時計のようなアイコン)、すなわち世界との「共時間」を持っていなかった。

やがて祖母の家のベッドで眠り、夢の中に現れる女王に、

「ムーンワールドの時間の流れに身を委ねるのです……」

そう言われ、目覚めた時、少年の時間はムーンワールドに初めて「同期」したのだった。それは「生から死へと向かう、不可逆的な時間の流れに乗った」と言い換えることもできるだろう。世界とは、流れる時間とともに存在する。この時、少年はムーンワールドの住民となったのだった。

 

引き続き、横たわったまま考える。

では、この世界「ムーンワールド」とは「何処の世界」だろうか?

 

普段、ゲームにおいて、こんなややこしい考え方はしない。アレフガルドがアレフガルドであるように、ハイラルがハイラルであるように、魔界村が魔界であるように、ムーンワールドはムーンワールドである。それが何処であれ、とにかく「ゲームの世界」だ。もう少しこじゃれた言い方をするなら「現象界」に対する「象徴界」と言っても良い。

でも、もしムーンワールドが、この(今僕がなかなか眠れないでいる)現実世界のメタファーだとしたら?

これはたんにひとつの眠れなくなったゲーマー男の仮説である。正しかろうと、間違っていようと、後で考えを改めることになるにしても、この機会に、いったんこのような見方を携えて『moon』を再プレイすることにしようと思った。

余談だが、「主人公が実体を持たない透明な存在」であることは「虚構と現実(Real←→Fake)」という見方と同時に、「私と他者(I←→you)」という視点からも捉え直すことができるように思う。

この世界(ゲーム世界であれ現実であれ)における「自分≒僕」の「とくべつさ」。それは他者との比較によって得られる認識ではなく、きわめて構造的なものだ。そして主人公(≒自分≒プレイヤー)の特別さとは、『moon』において「自分だけ透明であること」によって強調・示唆されているのではあるまいか?

でも、本来的には主人公自身も他の住民達と抜本的に全く同じ存在、たとえば神によって最初から定められているような「決定された」存在であるなら……いや、ちょっと先走りすぎてしまっている気がするな。

ともあれ、ムーンワールドがこの「現実世界」のメタファーである仮定すると、主人公がムーンワールドに入る前、テレビの前で「母親にゲームなんてやめて早く寝なさい」と言われた世界は何処の世界(のメタファー)なのか? 

さしあたっては、そこは虚構でも現実でもない、「中間地点(LIMBO)」ということにしておきたい。

『moon』に内在する世界観を、「中間地点(LIMBO)」「虚構(Fake)」「現実(Real)」の3つに捉えておこうと思う。今はなんとなく、それがしっくり来る。

無論、こうした世界認識もプレイを続けているうちに、日々、ムーンワールドと現実世界の時間の流れとともに、変わっていくことだろう。そうした変化に融通無碍に対応できることが、「プレイしながら」記すことの利便性と言えるかもしれない。こと、『moon』のような内省を強いるゲームの場合はとくに。

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おやすみなさい(まったく眠れなかったけど……)。また明日。

ムーンワールド再訪記(0)

f:id:lovemoon:20180418160845j:plainまず、簡単な序文のようなものから。

当方、幼少期からのゲーム好きらしく、大好きなゲームはそりゃあたくさんあります(といっても、そこまで多くはないけど)。

しかし遡ること20年前、1998年に発売されたこの『moon』を「大好きなゲームの1本」として挙げるのはかなり強い違和感が否めない。このゲームに対する自分の想いを簡潔に比喩表現するのは難しい。そも、わざわざ言葉にする必要もないような気もする。

それでも敢えてするなら、

「重要な」とか。

「大切な」とか。

「かけがえのない」とか。

あるいは「自分を構成した」とする方が、少しは近い(それでも若干の違和感はあるけど)。

そして同時に、しゃらくさいことは抜きにして、「大好きっ!!!」と大声で叫びたいような無垢な気持ちもあって。

それでもやっぱり、「大好きなだけじゃ済ませらんない。」そんな不遜、かつ複雑な感情を持ち続けている希有なゲーム。そんな面倒な作品が僕にとっての『moon』である。

そんなとくべつな作品を今回、再度プレイする直截の(あるいは間接の)理由としては、

●およそ20年前、この作品について記した拙感想文(それは某ゲーム誌の面接時、原稿用紙に書いて提出した)を昨年の引っ越し時に引っぱり出し、読み返したこと。(それは記した当時の年齢など言い訳にならぬほど、稚拙なものに感じられた)

 ●ゲームの話題を通じて、ツイッター上でやりとりするようになった方(ここではCMさんとしておく)が、僕とのやり取りの中で、『moon』ソフトを購入し(中古市場ではけっこうな値段である、早くアーカイブ化しますように!)、最後までプレイし、得難い感想を送ってくれたこと(その感想はここでも参照することになるだろう)。

 ●評論家・文筆家として活躍している中川大地氏の『moon』評・決定稿とも言うべき長文を、つい最近になって初めて知り、読み、深い感銘を受けたこと。あれはもっと多くのmoonファンに読まれるべきだと感じる。

そして、何よりも『moon』の思い出・記憶を、未だ深く長く胸に刻んでいらっしゃるプレイヤーがいかに多いかに、SNSなどを通じて改めて気づかされたこと。

そんな要因が巨大な波となって、『moon』によって人生観・ゲーム観を少なからず変えられた者として、20年越しのまとまった記事——それは素朴な感想になるかもしれないし、たどたどしい論考になるかもしれないし、遅れながらの感謝状になるかもしれない——をしたためよう。そんな不遜な気持ちがこみあげてしまったのだった。

しかし、最後に『moon』をプレイしてから10年近く経ってしまっている現在、このゲームの細かな記憶はすっかり薄らいでしまっている。このままでは、まとまった記事を記すことはまず不可能だろう。

それなら、もう1度、今の自分の目でムーンワールドをつぶさに観察して回るのはどうだろう? そしてあの頃よりも肥えた(あるいは擦れた)ゲーム観と人生観(そのふたつは分かちがたく結びついている)を携えている自分が、はたしてどんな気持ちでこのゲームを再プレイすることになるのか?そんな興味も手伝った。

そうして、当時とは少しばかり違った視点で、細かなところに目を配りつつ、20年前の無垢な心(と言うべきか)で『moon』をプレイしていた自分と「出会い直す」ような心持ちで、再プレイすることを決めたのだった。

ここに記すのは、「長い時間が経ってから、再び訪れた国での旅行記」。あるいは、その旅行記のためにつける「備忘録」的な雑記のようなものになるだろう。1日1日、それをつぶさに書きつけていこうと考えている。

また、今1度、ムーンワールドを「もう1つの日常」として、日々この雑記をしたため、後ほどこの愛すべきムーンワールドから出てから(出ることはすでにして約束されている)、何かしらまとまった文を記す時の参照としたい。

そんな試みがはたしてうまくいくのか、そして最後まで続くのかか? わからないけど。『moon』なる一風変わったゲームにご興味ある方も、ない方も、よかったら最後までお付き合いください。

以下、ゲーム冒頭の写真ともに(今回プレイに用いるPS3ではスクリーンショットが取れないので、おもにスマホやデジカメで直接画像撮影してから加工しています。お見苦しい写真はご容赦ください)。

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冒頭『Fake Moon』のラスボス・竜。

竜とのバトルに決着が着く(そもそも、決着が着くのか着かないのか不明であるが)前に、母親の声(ゲームなんてやめて、早く寝なさい)で現実世界(?)に戻される。

注目するべきは、勇者が勝ったのか負けたのかわからぬままにゲームが終わること。竜の台詞「おまえがくることはすでにしっていたぞ」。この台詞はこの先、主人公の前で何度も変奏曲のように繰り返されることになるだろう。

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テレビに吸いこまれる主人公(≒私)。

ここからムーンワールドへとびゅうびゅう風吹く中、ゆっくりと落ちていくシーンが個人的に大好きだ。夢の中で見る記憶の走馬灯、あるいはビジュアル・サンプラーのように様々な場面が映し出される。それを録画し、スローモーションにしていちいち止めてじっくり見たい欲望に襲われる。途中、祖母の家で、哀しき勇者と化す前の孫の台詞が垣間見えた気がした。あるいは気のせいかもしれないけど。

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透明な、実体を持たぬ主人公。

それにしても、どうして愛犬タオと勇者の祖母は、主人公の存在にすぐに気づけたのだろう? 他のムーンワールド住民は、祖母から勇者の服を着せられるまでは、気配を感じた素振りもほとんどなかったのに。

それは、祖母の目がほとんど見えない(であろう)こと、タオが動物であることに起因しているのかもしれない。たとえば上記場面では、餌を食べている鳩に触れると、鳩はすぐに飛んでいく。鳥であるヨシダ、あるいはおもちゃの子であるノージなら、主人公の存在に(服なしでも)気づけただろうか? 確かめるすべはないのだが。

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勇者の祖母と愛犬タオ。

「タオ」は、製作者である西健一氏が当時飼っていた愛犬の名前だったように記憶している。その名はやはり「タオイズム」(中国の哲学思想)から取っているのだろうか。次作『L.O.L』(Lack Of Love)の作風などから鑑みても、「犬」なるものは西健一氏の世界観にとって、相当に大きな存在だったと思われる。

中心の柱の、祖母と孫(勇者)の写真に注目。「イノセンス(なるもの)の喪失」という主題も、この作品に通奏低音として流れているように思う。

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主人公が「透明な状態」であることは、道中あちらこちらで示唆される。

「透明な、実体を持たぬ主人公」という設定が、この世界(ムーンワールドと現実世界)を理解するうえで、抜きがたく重要であることは言うまでもないだろう。それについて、自分自身の言葉で得心することが今作を再開した目的のひとつだ。

隣で酒を飲んでいるのは近衛兵イビリー。歳を経て(自分が夜な夜な酒場に赴くような中年男性になってみて)、当時よりもイビリーにずっと親近感が湧いていることに気づいた。昼間には言えないこともたくさんある。

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おやすみなさい。また明日。

公園とアウトドアチェア、なるもの

週明け(本来は日曜日が週明けなのだろうが)の月曜日。

午後……何時かはわからない。時計を見に行く気力がない。スマホも見当たらないし。

最近読んだ本の感想や遊んだゲームについて記そうかとも思ったが、しばしデスクトップの前に座していても、そのような気力はまるで湧いてこない。

となると、さしあたり、「気力が出ない今現在の自分の状態」について、つらつらとしたためることになりそう。それは正直、望むところではないのだが……というのは言い訳にすぎなくて。要するに、今日も「うだうだ」していたかった。そるだけのことだよ(誤字に非ず)。

 

ともあれ、ここ数年、月曜はたいてい「完全休日」ということにしているので、よし、やるぞ!と奮起しなければ、何もしないで済むのがたいへんありがたい。それでも、陽が暮れてかけてきたら、ちょっとだけ出てみるか……と目論んでいる。

しかし、僕が疲れただの、うだうだしていたいだの、出かけるだの、そういった記述がいったい誰の何の役に立つというのか?

言うまでもなく、誰の役にも立たないだろう。しかし、そういうことを言い出すと、「誰かの役に立つことを書けなさそうなので、今日は何も書きません。おしまい。」ということになってしまう。それはさらに僕の本意ではない。そういうわけで、もうしばらく疲労めいた与太話を続ける(すみません)。

 

「休日、一歩も外に出ない」という行為は、かつて僕の大得意技であったのだが、愛猫が他界し、集合住宅に引っ越してきてからは、1日のうち、少しでも外に出て、街の空気を吸わずに夜を迎えると、どうも心身がぎこちない感じになってしまうことが増えた。なんだろう、「一軒家と猫」といったかつての有り難い環境は、1日中引きこもるのに適していたのかもしれない。ああ、戻らぬ日々よ。しかし、僕は前を向いて(時々は後ろを振り返りながら)まっすぐ歩いていかなきゃいけない。

それで、このところ「ちょっと外に出たい時」にどうするかというと、

 

●適当な格好に着替える(さすがに寝巻きでは出られないので)

●コンビニで缶ビール(または紙コップコーヒー)を買い求める

●近くの公園に歩いて赴き、30分ばかりベンチに座している

 

そこはかなり広い公園だから、いつだって誰かがいて、何かしらしてる。ユニフォーム着た愛らしい少年たちが草野球してたり、犬連れた中年が体操してたり、うら若きカップルが遠くのベンチで愛を語らってたり、初老夫婦が、少年たちの試合やカップルを微笑ましそうに眺めながら、唐揚げ弁当(らしきもの)を食べてたり。

そういう光景をひたすら無心で眺めていると、ささくれだった心が、少しずつ収まるべきところに収まっていく、あるいは収まらなくとも、収まるべき場所に近接していくのを感じる。感じないことももちろんあるが。

「何も考えない(考えないようにする)」というのが、最近の自分にとって1番のリラックス方法なのかもしれないな、と思う。

それで最近は、こういうものの購入を考えていました。アウトドアショップで売ってる、簡単に持ち運べる、組み立て式チェア?みたいなやつ。

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Tactical Chair(Helinox)

こいつを公園まで担いで持っていき、心地よさそうな、秘密めいた、目立たなさそうな場所で組み立て、うららかな陽射しを浴びながら、少年たちがあげる夏草のように瑞々しい歓声を聴きながら、読書したり、昼寝したり、缶ビールを飲んだりする。

そんなことが、とてつもなく難しく感じてしまう。やってみれば意外と簡単なことなのかもしれない。が、そんなこと、とてもできっこないだろ?っていうような気持ちになってしまうのは何故なのか。

オッシュマンズの広告から抜け出てきた中年男みたいに見られかねないことが気恥ずかしいのか? あるいは奮起して買ったところで、せいぜいベランダか窓辺に置きっぱになって、時々思い出したように座ってみるものの、なんとなく落ち着かなくて15分くらいで立ち上がってしまう気がするからか? 

そんなことを書いてるうちにそんなアウトドアチェアのことはだんだんどうでも良くなってしまった。そんな月曜日の夕方でした。快い1日を。

今朝見た夢をありのままに記述するよ

ふだんは、見た夢の内容などほとんど憶えていないか、あるいはとっとと忘れたいような厭な夢、あるいはひどく俗っぽい夢を見ることが多いのだけど、今朝は珍しく夢らしい、印象的な夢を見ました。

「人の夢の話ほど興醒めな話もない」とは昔からよく言われますが、個人的な備忘録としてここに記しておきます。

どういった経路を通ってきたのかはわからないが、バイオハザードかバイオショック(どちらもホラーゲームです、一応)に出てきそうな、青暗いホテルの一室にいました。


僕はそこで電気スタンドのコンセントを挿したり(挿すといちいち火花が飛び散る)、隣の部屋の壁にかけてあるスペアキー(鉄製のリングにじゃらじゃらとぶらさがっている)を確認したり、景色が「うねうね」歪んで見えるように作られた、水族館の水槽みたいに大きくて濃い青色のはめ殺しの窓から外を見ると——

青色の窓を通して見える光景は、どうやら向かいのラグジュアリーなホテルらしく、部屋の窓からこちらを物珍しそうに見ているカップルたち、レストランのベランダで食事をしている裕福そうなファミリーたちが、いかにも物珍しそうに、面白そうに、窓越しにこっちを見ている。彼らの姿も、ベランダもテーブルも青くぐにゃぐにゃと歪んでいました。

 

いい気なもんだ、それに俺は見せ物じゃないぞ!

向こうからこの部屋がどんな風に見えるか知らないからな(丸見えかもしれないし、やはりぐにゃぐにゃ歪んでいるのかもしれないし、シルエットくらいしか映っていないのかもしれない)、いくらでも、勝手に見やがれ!っていうような開き直った気持ちになった後、

僕はその部屋から出て(ドアに鍵はかかっていなかった)、部屋の外にある、配水管や電線がびっしり通っている、高くて狭い場所を身をかがめて移動していました。かなり高所恐怖症なので、現実ではそんなことできっこないのですが、夢の中だからか、クライシスもののゲームの主人公のように恐れずに、でも苦労しながら進んでいきました。

やがて、その先には床はなくなっていて、5メートルくらい向こうの開いた窓に、黒っぽい犬がいました。尻尾を振って、「こっちだよ」と誘っているように見えます。

選択の余地はない。僕はマリオのようにその窓に向かって大ジャンプ!しました。

現実なら、地面に向かって真っ逆さま!でしょうが、夢だからか、無事に犬の傍に着地しました(夢とはいえ、落下しなかったことに深く感謝)。

 

そこで目が覚めました。目は開けていなかったけど、夢から覚めたので、真っ暗闇です。瞼の裏側です。

でも、現実の(眠っている)僕の右手に、小動物の毛のように柔らかな手触りがありました。ぴんとした耳と、濡れた鼻が感知されます。それは犬というよりは、小さな猫のような手触りでした。僕は目を開けてその猫か犬の顔を見たいのだけど、なかなか目が開けられません。開けられないことで、僕はまだ夢から完全に覚めていないことに気づいたのです。

 

どうにか目を開けると、場面は変わっていました。

地下鉄でしょうか。僕は電車のプラットホームに繋がっている階段を下りていました。手には大きな段ボール(のようなもの)を持っています。その中に、かつて、ともに暮らしていた猫そっくりの(ほとんどその猫と見間違うような)白猫が入っていました。段ボールの隙間から目と鼻だけ出しています。僕は嬉しいような、懐かしい心持ちでその猫と一緒に列車に乗ろうとしました。

ところが、列車が到着する直前になって、猫はいきなり暴れ出したのです。ああ、こんなに危なっかしい場所で猫を箱から出すわけにはいかない。僕は自分の背負っていたデイパックに猫を移すこと、あるいは箱から出して無理矢理に抱きかかえることを考えました……。

そこでいきなり(たいていの場合、夢から醒めるのはいきなりだが)目覚めました。

そして横になったまま、こう思ったのです。

あの猫は、この現実で生まれ変わったりはしない。少なくとも、僕がこの現実に属している間は、ずっと一所に、一緒にいる。こうして、時々夢でそれを教えてくれる。何しろ、あの頭の手触りは——手触りだけは——明らかに夢じゃなかった。

 

さて、今日は5時間くらいしか眠っていないので(昨日は適切な酒量を超えていたのだろう。おとつい呑んだギネスビールと二階堂の湯割りは睡眠を長く、深くしてくれたから)、ひたすら眠たくて。でも、こうしてどうにか夢を記述できて良かったです。

誰が為に刷新す(改)

こんばんは。のっけから、今日は何も記すことがなさそう。

ですが、土/日は個人的喫茶為事による極度の疲労により、おそらく、きっと、いつだって何ひとつ記せなさそう。

なので、平日はたとい何ひとつ記すことなくとも、何かしら記しとこう……そう思ったりする今日(こんにち)でした。

そういうわけで、今日はひとつ無理してみるか……そんな木曜の夜です。

しかし、私の今日の無為についてつらつら記してみても、誰のためにもならないだろうなあ……あ、「誰のためにもならない」で、ふいに「誰がために鐘は鳴る」のことを思い出した。御存知、アーネスト・ヘミングウェイの有名戦争小説です。

誰がために鐘は鳴る 上 (新潮文庫)

誰がために鐘は鳴る 上 (新潮文庫)

 

最近、新潮文庫から新訳が出ました。

僕は常人らしく(?)ヘミングウェイが昔からとても好きです。氏の代表作「日はまた昇る」「武器よさらば」「誰がために鐘は鳴る」は(一応)全部読んでいます。故・大久保康雄氏の旧訳ですが。

で、この高見浩さんの新訳は、「日はまた昇る」にしても「武器よさらば」にしても、生理的にどうしても馴染めず、購入したものの、途中で投げちまいました。

しかし、昨年のノーベル賞受賞・イシグロカズオ氏の翻訳をされている土屋政雄氏の「日はまた昇る」(ハヤカワepi文庫)は、最高に素晴らしかった。今でも時おり読み返しては溜息ついてます。ヘミングウェイ未読の方にも、おすすめします。

日はまた昇る〔新訳版〕 (ハヤカワepi文庫)

日はまた昇る〔新訳版〕 (ハヤカワepi文庫)

 

話、逸れました。

さて、この高見氏新訳、「誰がために鐘は鳴る」。

まだ上巻の半分くらいだけど、すっごく良いです。とても、かなり良いです。あるいは大久保康雄氏の名訳を越えているのではないか?と心から思う。 

さすが、現役ヘミングウェイ専翻訳者。きっと訳しながら、人間的にどんどん成長されていたのでしょう。僕のような若人にそんな風に評される筋合いも根拠もないでしょうが、本当にそう思った。

高見浩氏は、これ(誰がために鐘は鳴る)を訳すために翻訳家になったのではないか? そう思えるくらい、気合入った、ばっちり心に滲み入ってくる名訳。

ここんとこ、寝しなに少しずつ読んでいるのだけど、しかも、物語展開は旧訳ですでにほとんど知っているのにもかかわらず、読み進めるのが毎日楽しみで楽しみで。

文学史的には……どうなんでしょう、「冗長」とか「退屈」とか評していた評論家もいたそうですが、僕は故ヘミングウェイの最高傑作、かどうかはわからないけど、「日はまた昇る」「武器よさらば」に決して劣らない(どころか越えかねない)傑作と思っています。

どんなところが? 

それはきっと、いつかきっと後述(ややこしいところはつい先延ばしにしてしまう癖が……)します。

そも、僕は戦争小説ってあまり好んで読みません。だけど、ヘミングウェイのだけは読める。読めてしまう。「武器よさらば」にしても「誰がために鐘は鳴る」にしても、最初から「戦争小説」と思っていない。静かで、ナイーブな、「心地よく清潔な」文学的磁場がそこにある。そんな気持ちをもたらしてくれる作家はそうそういません。ヘミングウェイとあの人くらいしかいない。

↑「あの人」って誰だ? 自分で書いておいて、翌日読んだら思いつかない……。