めくるめくメルク丸

ゲームと現象学??

This Feeling Never Die〜『テトリス・エフェクト』にビシビシ感じる水口哲也のブレない姿勢

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先日、友人(PSVR非所持者・テトリス好き)が私の家にやって来て、『テトリス エフェクト』をプレイした。

彼は数時間後、ヘッドセットを外し、顔を赤々と蒸気させながら「いやー、VRってさ、知覚の扉を開く合法ドラッグだよな…」と呟いた。「テトリスが別次元のゲームになっちゃってるわ……」

いやー、なんて御座なりな感想だろうか……その時、私は端的にそう感じてしまった。口には出さなかったものの。

しかし彼が帰ってから、改めて思ったのだった。

『Rez infinite』や『テトリス エフェクト』に触れた者が、「知覚の扉」「合法ドラッグ」「別次元」と言う時、彼はどのようなコンテクスト(文脈)で、また、どんな実感に基づいてそうした言葉を使ったのだろう? そも、私はそうした言葉を確かな実感として得られているのだろうか? 

ビデオゲームについて、またVRについて語る時、我々はどんなに慎重になってもなりすぎることはない。使い古された、意味を「すっかり共有されている」と思いこんでいる言葉も、新しい磁場においてはまったく別の意味を生み出しえる。あるいは、そこには一見手垢のついた言葉であっても、現在の自分には未だ掌握できていない「拡張された感覚」が含まれていることも多いにあり得る……缶ビールをちびちび飲みながら自分を戒めた。

水口哲也の作品を体験した時、「言葉」を用いてそれを他者に伝えようとするのは(言うまでもなく)難しい。黙ってヘッドセットを被った(あるいは被ってもらった)方がどれだけ「話が早い」だろう?

「この感覚」を言語化しようとする試みなど、全くもって無意味かもしれぬ――『Rez Infinite』『テトリス エフェクト』をプレイした時、そのような無力感を強く感じた。それでも電ファミニコゲーマーに掲載された水口哲也インタビュー記事に貫かれた、「言葉にできない領域をどうにかして言語化する」意思と姿勢にずいぶん励まされ、鼓舞され、この体験を私もどうにかして文章化してみたい、と強く思ったのだった。

news.denfaminicogamer.jp

ここからは、上記水口哲也インタビュー記事にインスパイアされての『テトリス エフェクト』への個人的な所感を少し記してみたい。

冒頭で、私は自分の友人が漏らした『テトリス エフェクト』への感想を、いかにも陳腐なものに感じたと述べた。しかし、私自身も『Rez infinite』『テトリス エフェクト』の作り手である水口哲也を「VRが新しい知覚の扉を開く合法ドラッグである」ことに対してもっとも自覚的なゲームクリエーターのひとりである——そう固く信じていることを認めないわけにはいかない。古参のゲームファンとして、無邪気で素朴な感想を言うことが憚られただけだ。

しかもここ数年の水口哲也の仕事においては、もはや「ゲーム」という言葉を使うことは適切ではないのかもしれない、とも感じる(ただし、個人的には今後「ゲーム」について深く考察し、迂回し、熟慮した後、「やはり水口哲也は『超現役の』ゲームクリエイターである」という結論に至るような気がしてやまないのだが)。

『テトリス エフェクト』(私の場合)。

待ちに待った体験版を初めてプレイしてから2時間後、私が抱いた感想は「たしかに面白いけれど、『Rez Infinite』とはずいぶん違うな……」そんな所感だった。

あの超絶開放/解放体験 『Rez infinite』AreaXを初めてプレイした時の、重い身体感覚から自由になり、魂だけがアヨコスモス(全宇宙)に放りこまれたような未曾有の感覚は、ゲームなるものと関わってから30数年を振り返ってみても、5歳の頃に生まれて初めて電子ゲームに触れた時の体験と並ぶ、あるいはそれを越えかねない、空前絶後の体験だった。プレイ中、私は『Rez Infinite』を「ゲーム」とは認識していなかったように思う。それは自分が行為している対象が「ゲーム」であることをすっかり忘れる、未曾有の体験だった。これだけ長いことゲームなるものを続けてきて、ゲームからそのような感覚が得られたことに深く感動し、この作品を世に送り出してくれた水口哲也というクリエイターに深い感謝と共感を覚え、AreaXラストではほとんど泣いていたことがつい昨日のように感じる。

しかし360度に広がる(ように感じられる)視界を全身全霊で感じ、刺激的、かつ耽美的な電子音にすっかり身を任せてプレイする『Rez Infinite』と比べると、視線を目の前に展開するテトリス場に固定し、落下してくるテトリミノを凝視し、VR空間内でこの『テトリスエフェクト』を長時間プレイすることは、ずっと局地的かつノスタルジックな体験であるように体験版では感じた。

それでもその後、製品版を時を忘れるほどプレイしているうちに、『テトリス エフェクト』を『Rez infinite』と同列に並べることが間違っていたのだ……と腑に落ちる瞬間が訪れた。それは『Rez Infinite』のスペースから離れた場所にある階段を下り、「別の部屋」へ入っていくような体験だった。

その部屋の名前は『1/fスペース(ゆらぎの空間)』という。

「1/f」という言葉を御存知だろうか。自然界に存在する、無数の不規則なゆらぎ。五感で感じ取ることのできる、一定しないリズム現象「ゆらぎ」には、ある法則があるという。

「ゆらぎ」の程度が、1秒間に周波数fに反比例して分布している場合、つまり1/f(エフブンノイチゆらぎ)の状態である時、人はもっとも心地よく感じられると言われている。(リトル・プレス「1/f」より)

その部屋に展開する、視覚を刺激するビジュアルエフェクトやサウンドは、水口哲也らしい「ゆらぎ」に溢れている。では、「水口哲也らしさ」とは何か? これを言葉で表すことにもやはり激しい困難を感じてしまう。そこに「クラブカルチャー」という、これまた手垢のついた言葉を当てはめるのはあまり気が進まない。しかし、『Rez infinite』『テトリス エフェクト』からひしと感じるのはやはり「クラブカルチャー」から生まれた感覚なのだ、という感が否めないこともやはり事実なのだ。

ただし、その感覚に過去へのノスタルジーは一切含まれていない。かつてクラブカルチャーから生じた何か――それは感情だったり、体感だったり、高揚だったり、効用だったりするのだが――を、水口哲也がもっとも新しい技術と手法で目指し、獲得し、今も真っ直ぐに「そこ」に向かい続けているというまったきフレッシュな感覚である。

ここに少しだけ私事を挟ませて頂きたい。

90年代の終わり、私は都内の大学で哲学を学びながら、週末には大音量でテクノやハウスがかかる「クラブ」に足繁く通っていた。『マニアックラブ』『ROOM』『BLUE』……そうした現在は残っていない場所に夜な夜な足を運び、真夜中、爆音でテクノやハウスを全身に浴びる。音楽ですっかり酩酊し、見知らぬ客たちとダンスフロアで目を閉じたまま何時間も無心でひたすら踊り続ける。回り続けるミラーボールと刺激的なVJで視覚と聴覚は入り混じり、自分と他者の区別がつかなくなりそうな瞬間に度々襲われる。もうこれ以上踊り続けることはできそうもない……そんな状態で階下のチルアウト・フロアへ向かう。そこでは心と身体を癒してくれるアンビエント・ハウスが流れている。床につっぷしている者もいれば、気持ちよさそうに身体を揺らしているものもいれば、狂ったように抱き合っているカップルもいる。私はたいてい1人きりで、壁に映されている回転したり、点滅したり、色彩を変えるカラフルな幾何学模様をぼんやり眺めていた。部屋は効果的な音楽と照明とたゆたうように踊る客たちによってゆらいでいた。それはまるで母親の胎内に留まっているような感覚だった……。

大音量でハードなテクノが流れ続けるダンスフロアで、覚醒感を感じながら踊り続ける状態が『Rez Infinite』に重ねるとしたら、あのチルアウト・フロアで感じていた穏やかな波のような「ゆらぎ」の感覚は、まさに『テトリス エフェクト』で感じた癒しに近いものだ。もしあの時、あのスペースで『テトリス エフェクト』がプレイできたら、きっとずいぶん幸福な気持ちだったろうと思う。

「クラブカルチャー」のメインフロアには快楽と覚醒感があり、そしてチルアウト・ルームは――癒しとゆらぎに溢れていた。その頃、私は何か大きな扉めいたものを押し開けるためにクラブに通っていたように思う。その扉を無理に言語化するなら――それはやはり避けたい言葉なのだけど――やはり「知覚の扉」と呼ぶべきなのかもしれない。感覚を押し広げること、見えない(ように見える)、しかし、そこにあるかもしれない何かの存在に触れること、時間の幻想から逃れること、他者と自己がひとつになったように感じられること。

それは求道者ラム・ダスが師であるマハリシに求め、スティーブ・ジョブズが禅師・鈴木大拙に求め、ティモシー・リアリーやビートルズがLSDに求めた時代から脈々と続いてきた、「ここを離れ、次のステージに向かいたい」という根源的欲望の発露であった。しかし、そのような欲望を継承した「クラブカルチャー」は(少なくとも音楽的側面においては)新世紀の幕開けとともに少しずつ衰退し、終焉した、ように思われた。

 

いささか話が逸れるが、ゲーム業界において90年半ばに頭角を現した、水口哲也と同世代のクリエーターたちも多かれ少なかれ、「クラブカルチャー」への狂騒と失望を意識的に(あるいは無意識的に)世代的に、文化的にそれぞれ抱えていたように思われる。90年代クラブカルチャー全盛期に傑作『moon』(PS)を作り上げた西健一、『太陽のしっぽ』(PS)でプリミティブなサイケデリア憧憬を、『ディシプリン 帝国の誕生』(Wii Ware)でサイケデリックと90年代の功罪を自虐的に表現してみせた飯田和敏、『Dの食卓』(3DO、SS)『エネミー・ゼロ』(SS)でゲーム業界の寵児となった後、あまりに早く夭折した飯野賢治もまた、水口哲也と同じ磁場/時代精神を共有していたように思う。

水口哲也が彼らと一線を画すのは、「未来への確信を携えてずっと追い続けている」という点ではないだろうか。何を? そう、知覚の扉を。クラブカルチャーが一瞬垣間見せてくれた眩い光を。西健一が『ギフトピア』で進んだ「現実との折り合いの道」を、飯田和敏が『ディシプリン』で描いた深い絶望を、水口は描かなかった。

その代わり、水口が2001年に放った『Rez』は、彼なりのアグレッシブな解答だったように思う。そこには、「俺はまだトリップし続ける」そんな固い意思と姿勢が漲っていた。私は『Rez』をプレイ中、まっすぐにステージの奥へ奥へと進んでいくアバターに水口氏の姿を重ねないわけにはいかなかった。そのトリップこそが、未来へと繋がるまったき正道なのだ――『Rez』のアバターは誰もがクラブカルチャーの終焉を如実に感じていた頃に、大声でそう叫んでいるようだった。This feeling is still alive.この感覚はけっして死なない――と。

そして『Rez』精神的続編『Child Of Eden』を通して2017年、『Rez Infinite』で再び彼の新しい挑戦を体験した後、私が『テトリスエフェクト』から感じとったのは、『Rez』によって開かれた扉はもうけっして閉まることがない——そんな感動的な実感だ。水口哲也が開けたその扉はすでに開き、その空間は現実に流れこんだ。その空間は新しい未来への確信にみちみちている。そんな祝祭的なアトモスフィアの後の穏やかなゆらぎが『テトリス エフェクト』には溢れている。

『やっぱり「新しい体験を作りたい」という気持ちがいちばん大きいのですが、「それを『テトリス』でやったらうまくやれるんじゃないか」という直観が確かにあったんです。』(水口)

その時、幸運にも『テトリス』というクラシックなゲームが、水口が描きたかった体験を表現するのに適切な「ルール」と合致したのだろう。そのプリミティブなゲームデザインは「没我」と「共時性」という、水口哲也が描こうとしている主題と強い親和性を持った古典的作品であり、そこでは「テトリス」はシンボルのようなものだ。

そして主題は――テトリス場が浮ぶ空間そのものにある。その空間に描かれるのは、宇宙めいた空間だが、それは地球の外に広がる宇宙ではない。目に見える宇宙もまたメタファーに過ぎない。水口哲也は視界も聴覚も触覚も、さらに言えば生も死も「一緒くた」になった内的宇宙への旅に我々を誘っている。それを水口は「シナスタジア」と呼んでいる。

「本当は僕はVRの時代なんて早く終わればいいと、いつも思ってるの。」(水口)

『テトリス エフェクト』をプレイして巨大な「ゆらぎ」を感じている時、私は自分が本来の私にもっとも近しい私にじわじわとチューニングされていくのを感じる。VR空間で無心でテトリミノを繰っている私は、いつしかすっかり消滅している。在るのは空間と光と音だけだ。もう「ヒト」の形をとる必要のなくなった我々のイメージがそこに見えずとも、ひしひし感じられる。多分、きっと、絶対。

31years Later〜そして己の「ゲー道」へ……

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今から遡ること今から30年近く前のこと、僕が小学校(K市立第八小学校)を卒業する1ヶ月半前のことです。

やたら寒い日だったように記憶しています。ぼたん雪かみぞれ雪が降っていたような気も。

そう、それは忘れもしない、2月10日(水曜日)。『ドラゴンクエストそして伝説へ……』の発売日でした。

この日、クラスの半分以上の男子と僅かばかりの女子(少しばかりはいたようです)はドラクエのことしか考えていなかったはずです。無論、僕も然り。しかし、発売日にこのゲームを入手できた幸運な輩はそれほど多くはなかったように記憶しています。

僕はと言えば、当時親しくしていた近所の、小さなゲーム店の主人が取り置いてくれたおかげで(そして快く買い与えてくれた親のおかげで)、幸運にも発売日の夜にプレイすることができました(ありがてえ、ありがてえ)。

「そして」手に入れたドラクエとともに、小学校生活最後の1ヶ月を愛おしむように過ごしながら(闇に覆われたアレフガルドのような中学校のことなど知らぬままに……)、無我夢中になってプレイしました。正確な日数までは憶えていませんが、おそらくクリアまで2週間前後といったところでしょうか。

 

「そして」『ドラゴンクエスト』をクリアした翌日、僕は或る思いを自分自身に、さらにクラス(6ー1)中の同級生に宣言しました(以下、おそらく原宣言ママ)。

「みんな、聞いてくれ……オレは、この先、どんなことがあっても、中年男になってもファミコン(その後も任天堂ハードで供給され続けるであろうゲームハードとソフトの意)やり続けるからなっ!」

(しかし、拍手と歓声は響かなかった)

「死ぬまでドラクエやり続けるからなっ!」とは言いませんでした。言わなかった自分を褒めてあげたいです。なにしろ、ドラクエXは未プレイの僕なので。

また、思い返してみると、自分にとって『ドラゴンクエスト』のみが「大人になってもゲームやめんぞ」と誓わせる要因となる、唯一無二の作品だったわけではありません。

何しろ当時の僕らにはナムコ(バンナムじゃないナムコ!)がありました。コナミ(あの頃のコナミ……!)もありました。カプコン(カプコンは現在も良メーカーだと固く信じています)もありました。ハドソンがあり、ジャレコがあり、データイーストがあり、タイトーがあり、ケムコがあり、カルチャーブレーンがあり、ヒューマンがあり、デービーソフトがあり……その他にも愛すべき数多のソフトメーカーが存在していました。それらは認めなきゃならない。

「そして」言うまでもないことですが——その頂点には胴元メーカー「任天堂」が君臨していました。思えば、僕は「ファミリーコンピューター」という凄まじいハードを作ったばかりか、自社でも多くの素晴らしいソフトを供給していた任天堂という会社に対しても、深い感謝と忠誠を誓ったのだと思います。

 

「そして」僕は小学校を卒業してからも、なんやかやありつつも——どうにかヴィデオゲームなるものをプレイし続けてきました。スーファミはもちろん、大学生時代はバイト代はほとんどゲーム代に回し、プレイステーション、セガサターンもずいぶんと遊びました。年甲斐もなく、初代ポケモンはミュウ含む151匹を全て収集しました。その頃にポケモンを遊びまくったおかげで、大学卒業後、某出版社T書店に入社後、N64やポケモン金・銀にまつわる雑誌編集に携わりながらゲームを続け、その後は別の仕事に就いてからもゲームはどうしても止められず(止める気になれず)、プレイし続けてきました。

「そして」2011年、3月11日のことです。

明け方に店仕事から疲れて帰宅し、WiiDLした『ニックスクエスト』というゲーム(ギリシャ神話をモチーフにした興味深い横スクロールアクションゲームです)をプレイしていた明け方、部屋が「ごどん……!」と大きく縦揺れしました。

その瞬間、僕はドラクエ終盤で「ギアガの大穴」に落ちた時のことを鮮烈に思い出しました。外に出ると、実際にごごご……と地響きがして、ひゅうん、という音が聴こえた気がしました。翌日、世界は(節電の為に)本当に暗くなり、闇の世界アレフガルドのことが否応なしに脳裏をよぎりました。不謹慎かもしれませんが、真正の記憶です。その後、『ドラゴンクエスト123』(Wii)を買い求め、その場面を追体験しました。

 

「そして」僕は東日本大震災を間接的なきっかけとして、多摩地区で小さな喫茶店を始めました。少ない余暇には本を読んだり映画を観たり……でも、主にゲームしてました。やっぱり。

201811月現在、僕の小さな机にはPS4PSVRXbox oneSWITCHが鎮座ましましています。齢12歳の時、同級生たちに宣言した通り、僕は齢40を越えた今でもゲームをやり続けているわけです。計らずも。いや、計ったのかも知れないが。

同級生と自分への約束を守って——というわけでもないのですが、任天堂が発売した据え置き機と携帯機は全て、セガやsony、Microsofが発売したハードまでほとんど購入してきました。それについて誰が褒めてくれるわけでもないし、とくに褒めてもらおうとは思っていないのですが、僕はこれからもゲームをやり続けていく、そしてゲームについて記し続けていく所存です。一応、やれる限りは。また、今もどうにかゲームをやれていることに少なからず感謝しています。

さて、ようやく長い前口上と自分語りが終わりました。 

(すでにご存知かもしれませんが)最後に「腐れゲー道」という古参ゲームブログを紹介させてください。

blog.goo.ne.jp

あの頃、僕とともにファミコンに熱中していた友だちはもう誰1人としてスマホゲー以外のゲームを遊んでいないようです(そのことはつい最近、小学校の同窓会で確認しました)。

だけど、もし彼らが今でもあの頃のようにドラクエをやり続けていたら? 

もうあの頃の無邪気さは微塵もないし、ゲームへの純粋な喜びはあまり感じられないけれど、きっとゲームは僕にとっても彼にとって「暇つぶし」でも「娯楽」でもありません。それを何と呼ぶべきだろうか? 執着? 拘泥? 義務感? ……わからんけど、とにかく僕と同じように——というのはいささか僭越ですが——幼少期からゲームを渋々と、延々と、淡々と続けてきたゲーマーのリアルな歴史が確かにここにあります。

昨今、Twitterやゲームメディアでは、ゲームへのピュアな期待と無邪気な喜びに溢れる声、そしてゲームをまったき「批評対象」として捉えた優れた文章と出会うことができます。しかしゲーム(なるもの)に対して、喜びも打算も連帯もなく日々黙々と続けてきた、古参ゲーマーの声に僕は今ももっとも激しく打たれる。

「ゲーム」は我々の世代が放課後にファミコンやスーファミで遊んでいた素朴な時代と比べれば、グローバルでイノーモスなマーケットを確立し、文化/芸術としてようやく「まともに」捉えられつつあります(その扱いにまだまだ文句はあるけども)。「ゲーム」にはポジティブかつコンテンポラリーな要素が潤沢に溢れているように見えます。

しかし過去に拘泥したまま、否応なしに使命感と義務感と何らかの感情を感じながら、最新のドラクエをプレイする古参ゲーマーは今なおここに存在しています。そのことに僕は強く励まされるし、激しく鼓舞される。自分もあの頃の気持ちを(なるべく)忘れずに、いや、たとえ忘れてもゲームを虚心坦懐にやり続けていよう……そう心新たにする。そこにゲームがある。ゆえにゲーム……する。その姿勢は——「Just do it」と言うべきか。 

著者の力強い文章力と、洞察力と、粘り強さと、長年付き合ってきたであろうゲーム(なるもの)に対する真っすぐ、かつ屈折した……簡単にはまとめらんない、長く曲がりくねったゲー厶道を歩む男の冷めた熱い思いが、ここにびしびし顕れていると感じます。

そういうわけで、ドラクエXIの決定的感想文はこちらまで。(プレイ済みなら)必ず読むべしっ。

『ドラゴンクエストXI』感想文https://blog.goo.ne.jp/otaoota/e/ef26552924f7c1bc78be7672716ea0f3

「古典的ADV」がVRで描かれた時、何が起こるのか? 『Deracine(デラシネ)』は『Rez infinite』『Astro Bot』に続いてVRの新しい扉を開いた傑作である

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冒頭から結論めいた賛辞を述べることを許して頂きたい。

『Deracine(デラシネ)』(PSVR・2018年11月6日発売)は古典的ADVが、その姿を留めたまま奇跡的に到達したメルクマールであり、VRで描かれたADV」の最初のマイルストーンとなるべき作品である。だからこれを読んでくれているあなたには、このレビューを読む前でもいい。読んでからでもいい。プレイして頂きたい。心からそう願ってやまない。

何しろ筆者はさきほどクリアしたばかりで、「興奮冷めやらぬ」といった状態であり、まだ頭に血が上っている感は否めない。が、今作がこれほどの傑作となった理由と根拠を、以下できる限り冷静に考察してみたいと思う。

文責/ラブムー

 

『Deracine』に惹かれる、そして実際に手を伸ばすゲームファンの殆どは、筆者と同様、以下に挙げる3つのいずれか(あるいは全て)が購入動機となるのではないだろうか?

①本作が『NEBURA ECHO NIGHT』(PS2)以来、14年ぶりにフロム・ソフトウェアがリリースするアドベンチャーゲーム(以下ADV)であり、傑作Bloodborne(PS4)同様、社長でありディレクターである宮崎英高氏*1がSIE JAPAN Studioとともに手がけた最新作であること。

②本作が「PSVR専用」でリリースされる国内初の本格ADV*2であること。

③本作のプレイ環境が「PlayStation Moveモーションコントローラー2本必須」であること。

①について。

本作と『エコーナイト』『Bloodborneはジャンルもコンセプトも著しく異なる作品であるものの、通奏低音としての類似が認められる。その類似はフロム・ソフトウェア作品ならではのゴシック的アトモスフィアや、耽美的なグラフィックといった、表層的相似点に留まらない——或る作家が生涯持ち続ける「文体の一貫性」のような既視感に近い。フロムファンにとって、本作が上記2作品に深く関わってきた宮崎氏の最新作であることはDeracineに手を伸ばすうえで大きなきっかけとなるかもしれない。しかしファン以外にも虚心坦懐な心持ちでこの世界に触れてみて頂きたい。そこにはVRならではの、唯一無二のADV体験が確かにある。

②も筆者にとって今作をプレイする強い動機となった。

PSVRが発売してから先日で早いもので2年が経ったが、北米ストアでいくつか興味深そうなADVが発売されているものの(『ヒア・ゼア・ライ』など、野心的な作品の数本を国内でも購入/プレイすることができる)、国内外PSVR市場において、本作のような純然たる本格ADVはこれまでに1本もリリースされていないように思われる。PSVRという環境で国産ADVをプレイすることに飢えていたプレイヤーにとって『Deracine』はうってつけの作品となるだろう。

かねてより(その構造によって)「静的」なムードを纏ったADV作品は数多いが、今作は意識的な通奏低音としての「静けさ」に加え、「存在/非存在」の顕在(矛盾した物言いだが)をひしひしと感じさせる。それについて、ディレクター宮崎英高氏の以下の発言は今作を考察するうえで重要に思われるので、ここに引用する。

『Deracine』は)一般的なVRゲームと違い、すごく静かなゲームとなっています。¨実在する¨という感覚と¨実在しない¨という感覚をうまくコンテンツに落とし込めないかなと考えていたところが、本作を作るスタート地点でした。

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キャラクターが確かに「そこにいる」という感覚と、「これは実在するものではない」というアンビバレントな感覚の両立。そしてそこに顕れる齟齬こそがVRならではの体験であると宮崎氏は感じたようだ。

VRに初めて触れた時、「実在感」「非実在感」を同時に感じたという感想は――いささか語弊があるかもしれないが——VR体験者にとっては、意外なほど「まっとうな」所感に響くかもしれない。

しかし、その自然な感覚を最深まで掘り下げ、宮崎氏がVRならではの本格ADVに向かった結果、今作のような「何にも似ていない」オリジナリティに溢れた作品が生まれたことは瞠目に値する。

また、プレイヤーが『Deracine』の世界に実在する子供たちの目からはけっして見えない「妖精」たる存在であり、プレイヤーの居る世界には「時が流れていない」というユニークな設定は、VRでしか入れないこの世界に——「これしかありえない」と思えるくらいぴったりと——馴染んでいる。

Deracineは宮崎氏のVRに対する素直な身体感覚と、氏の持っている独特の時間感覚や過去フロム作品から脈々と受け継がれてきた「死」のイメージを纏ったゴシック的世界観(と言うべきか)が絶妙に結びついたことによって生まれた必然的かつ有機的な作品であると言えるだろう。

PlayStation Move(モーションコントローラー)2本必須」のインパクトも個人的にはかなり大きかった。

販売本数を考慮するなら(無視することはできないはずだ)、たとえ作品の魅力を幾許か損ねることになっても「Dual Shock対応」あるいはPlayStation Move1本でも操作可」といったプレイ環境を実現する方が(SIE JAPANスタジオ・プロデューサー山際氏の発言によると、それも一応は検討されたようだ)、より多くのファンに今作を届けることができるように思う。

しかし、宮崎氏は妥協しなかった。目先の販売本数よりもプレイヤーに本作を充全な形でプレイしてもらうことを選んだ。

「本作はVRで体験できる実在感・非実在感を、テクノロジーの限界としてではなく、世界観に落とし込んだものとして製作しているので、没入していただかないと意味がなくなってしまうと思いました。そのためPlaystation Moveを2本使うことにしました」

宮崎氏はプレスリリースで事も無げにそう語っている。だが、「こと」はそれほど簡単ではなかったはずだ。この発言に宮崎氏の経営者としてよりも、ゲーム職人としての頑なな矜持を強く感じないわけにはいかない。

くどいようだが、「PlayStation Move2本必須」という条件によって今作の購入/プレイを断念しかねないADVファン/フロムファンは(遺憾ながら)相当数いることが想像される。

それでもなお、PlayStation Move2本による操作に拘った宮崎氏の判断は正しかったと言えるだろうか?

商業面における妥当性に関しては門外漢の私には「わからない」というより他ない。しかし、今作のためにPlayStation Moveを2本揃え、最後までプレイしたいちファンとして、私は宮崎氏の判断を「絶対に正しかった」と言い切ってしまいたい。

だから声を大にして言いたい。

もしあなたがPSVR所持者で、このゲームに少しでも興味を抱いているのなら、ソフトとPSMOVE2本買ってプレイするのが賢明だ。

いや、これではまだ足りないようだ。

もしあなたがPSVR非所持者であっても、この作品に対して少しでも興味を持っているなら、PSVR本体を購入してでもプレイするべきだ。

案ずることはない、現在販売中のPSVRにはMOVEが(おあつらえ向きに)2本同梱されたセットが販売されている。「Move2本必須」という縛りが「この作品に触れてみたい」というプレイヤーの欲求をかえって強く駆り立てることを願う。今作にはそれだけの価値が充分にあるのだから。

そう自信を持って言えるくらい、Deracineは――そのクラシック・ゴシックなビジュアルと世界観からは思いも寄らないほど――「まったき今」を感じられる、エポックメイキングなVR作品だ。そして、そこにはモーションコントローラーによるプレイが大きく寄与していることは疑いえない

ゲーム開始直後、非物質的存在――「妖精」である筆者はまるで初めて肉体を得た魂のように、自分の両手をあちこちに動かしたり、引っ繰り返してしげしげと長いこと眺めていた。この「再生——身体的同期」の感覚は、モーションコントローラー両手持ちでなければ決してかなわない。「両の手」は実体を持たない妖精であるプレイヤーにとって、子供たちが存在している現実世界と関わるための唯一の媒介である。さらに妖精はこの2本の手によってのみ、目の前の世界に干渉することができるのだ

あるいはモーションコントローラー2本での操作は、不慣れなプレイヤーには、開始直後こそ混乱と困惑をもたらすかもしれない。しかし、プレイを進めるうちに、この世界に存在するにはこの操作形態しかありえないことが腑に落ちるだろう。

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また、主観視点のVRゲームにおいて常に懸念される「移動による酔い」という厄介な問題は「ポイントクリック&ムーブ」による移動方法と、おそらくは開発者による丹念なチューニングによって完全に解決されている。筆者の経験では、長時間プレイしてここまで全く酔わなかったVR作品は今作と『Rez Infinite』『テトリス エフェクト』くらいしか思い当たらない。VR世界において「酔わずに移動できる」ということが、いかに有り難い恩恵であるかを今回強く思い知らされた。

そしてプレイヤーが「実体を持たない妖精である」という絶妙な(そして必然的な)設定によって、セピアの色調、古めかしい洋館といった古色蒼然とした麗しい舞台装置、この古典的な移動方法に違和感やレトロ感は一切ない。繊細かつ濃まやかな物語とゲームデザインが驚くほど見事に補完しあっていることに何度でも深い溜息が漏れる。そしてプレイすればするほど、VRで古典的ADVをプレイする」ということの意義と素晴らしさが腑に落ちる。

最後に。

個人的に『Deracine』に物語と同じくらい――いや、それ以上に強く感動したのは、「この世ならざるもの」としてこの世界に(自然に)在れることだった。

どういうことか?

これまでのVRゲームにおいて、筆者は自分がけっして軽いとは言い難いPSVRヘッドセットを装着し、夜な夜なVR世界に入りこむたびに、興奮と同時に、ある種の違和感を絶えず感じていたように思う。たとえどれほどゲームに深く没入できても、心の(あるいは脳の)どこかに「自分はこの世界から切り離された現実世界のプレイヤーに過ぎない」という無意識的な「醒め」の感覚が拭い難く残っていた。

ところが、今作はプレイヤーが世界と時間からすっかり切り離された妖精である」という絶妙な設定によって、この抜本的違和感を「没入感」によって払拭するのではなく、「自分が妖精としてこの世界に存在しているとしたら」当然感じるであろう違和感を伴っているがゆえの自然な実在感(やはり矛盾した物言いだが、こう言うより他ない)」へと転換することに成功しているのだ。

その手腕があまりに見事すぎるため、つい見過ごされてしまうかもしれないが、これは驚嘆すべき達成であると考える。宮崎氏がVRに初めて触れた時に感じた「実在と非実在の狭間に居るようなアンビバレントな感覚」、そのまま「時が止まった世界とプレイヤーの必然的な関係」として生成し、やがて帰着するのだ。

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また、『Deracineの世界では時が止まっているばかりではない。登場人物への干渉によって、時はふいに動き出したり、また止まったり、進んだり、戻ったりする。ストーリー(その内容について、ここではいっさい触れない)は完全に1本道で分岐することはおそらくないが、分岐の必要性は感じない。この奇妙で美しくも哀しい時間の中に、物語の中に、世界の中に、子供たち、そして妖精たる自分が存在していることに大きな意味/意義がはっきりと見出せるから。

モーションコントローラー両手持ちによる操作にすっかり慣れて、屋敷の中を自由に動かせるようになったら、物語進行のことは忘れて、無心で歩き回ったり、庭先で歩を止めてみて欲しい。陽光煌めく空の下、木の上に登って周囲をゆっくりと眺めて欲しい。目の前にいる少年少女たちの目を奥まで覗き込んでみて欲しい。暗い部屋で老いたる校長先生の眼鏡をおそるおそる外してみて欲しい。

その時、死者が自らの幼少期を追憶する時のような淡く切ない思いがじわじわとこみあげてくるかもしれない。そんな風に、心の中の、自分自身でさえも簡単には触れられないような場所に、このDeracineはそっと触れてくる。

ゲームには、VRには空間を拡張するだけではなく、こんなやり方で人の心に触れる優しく強い力があるのか……その驚きは静謐だが、私の心をゆっくりと、確実に巨大な感動で満たしていった。プレイ前は想像もできかった驚きと、確かな喜びと、抗えない哀しみとともに。

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VR技術によって作られた作品は、我々を驚かせたり怖がらせたり興奮させたりするだけでなく、癒し、憩わせ、忘れてしまったことさえ忘れてしまっていたような心の奥の記憶を揺さぶることができることを『Deracine』は証明してみせた。

今作はPSVRにおけるマスターピースRez Infiniteや話題作Astro Botが開いたエポック・メイキングなやり方とは全く違ったやり方で、我々の心の内の新しい扉の鍵を開け、そっと押し開けてくれるだろう。心優しい少女のような、か細く長いその手で。

*1:宮崎英高 フロム・ソフトウェア代表取締役社長・ディレクター。代表作は『DARK SOULS』シリーズや、SIE JAPANスタジオとタッグを組んで制作した『Bloodborne』など。

*2:本格ADV 「本格ADV」を定義づけることは難しいが、ここでは電ファミ記事「Detroit: Become Human』は日本のアドベンチャーゲームの文法に興味がない──イシイジロウ氏が感じた葛藤と、自身の限界」のインタビュアーである福山幸司が同記事冒頭に記した「アドベンチャーゲームとは、コンピューター(ゲーム)から提示される情報をもとに、プレイヤーが行動を決定し、ゲーム側と対話するジャンルである」という定義を採用したい。また、『Deracine』が宮崎氏が述べたように「クラシックなテキストアドベンチャーよりのゲーム」であり、ある程度以上の尺を持った「中編作品」であることも、本作を「本格ADV」として捉える理由の一端である。

『KUBO/二本の弦の秘密』を観た

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もっと仰々しいタイトルもいくつか考えたのですが、やっぱりこれで。

『KUBO』を観た。こちらの期待を遥かに越える、まごうことなき傑作であった。

もはやこれで済ませても良いような気も……でもせっかくなのでもう少し書きます。

でも、このブログを読んでくれている有り難い方々にはこの世紀の傑作をぜひ観て頂きたいと密かに所望している私なので、物語上の所謂「ネタバレ」っぽいことを記すのは控えようと思います。この「物語」が短いながらもたいへん素晴らしい作品なので、その内奥に触れられないのはいささか残念ではありますが。

今作は粗筋のみを述べると、表面上は古典的な冒険譚・成長物語のようにも見えます。

三味線と語りの得意な主人公・KUBOは母親と平穏な毎日を送っていたのだが、死者を呼び戻す祭りの日、母との約束を破ってしまうことで父母の宿敵姉妹と遭遇する。主人公の出生にまつわるある種の呪い。その呪いを自らの手で絶つことは彼の宿命でもあった。

命からがら村から逃れ、出会った仲間たち(サルとクワガタw)と旅するKUBOは、仲間たちと心を通じ合わせながら、伝説の武具(×3)を集め、親の仇——その根源的存在「月の帝」とついに対峙する……。

ざっくり要約すると、そんなところでしょうか。

このような古来より語り継がれてきたような古典的物語が絶妙に、巧妙にアップデートされている構造はピクサー作品にも通底するものを感じます。そういえば今作、先日観賞したピクサー映画『リメンバー・ミー』に通じるところが幾分あるような。公開時期もかなり近かったし、計らずもピクサーとライカ(今作の製作スタジオ)何か相通じるところがあったのでしょうか。

『リメンバー・ミー』を観た - めくるめくメルク丸

『リメンバー・ミー』は、ピクサー苦手な僕も褒めざるを得ないほど良い映画だったけど、『KUBO』を観た後ではかなり色あせて感じてしまうのも事実。あれは観賞後、もう1度観たいとは思わなかったからな。『KUBO』はこの先何度でも観たいぞっ。

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物語に関してはこれ以上触れないでおくとして、のっけから驚かされたのがその「絵(映像)作り」。「ストップ・モーション・アニメーション(約3秒の映像に1週間!の撮影期間を要するそうです)」という手法の説明を読んでも、実際にどうやってあのようにして融通無碍かつ美麗な映像を作っているのか? 全くわからないし、想像/分析する気にもあまりなれないのですが、これがクレイアニメでもCGアニメでも実写混ぜアニメでも手書きアニメでも、まあ、手法はなんでも佳き哉。いや、良くはないのだけど大事なことは手法や製作期間じゃない。

そこに「表現された世界」にのっけから心底驚かされたのです。完璧すぎる。粋すぎる。心と眼にすんなり同調する。そこに1片の無駄はない。必要な画のみがある。そして物語のキーであるKUBOの三味線からは、物語そのものをぐんぐん前に進ませるような素敵な音楽が紡がれる。

最高の絵(映像)と、最高の音楽と、最高の物語。「最高最高」言うの厭なのですけどね。「最高最高は作り手に対して失礼だろ」とは最近よく思うことで。「どう最高なのか?」を書かなきゃいかんだろ、と。でも……。

『KUBO』を観た。そしてそれは自分にとって最高であった。今日は単純明快に始めて、単純明快に締めます。お許しあれ。機会あれば、次はもう少し冷静かつ有用な感想文が書けると良いのですが。もしこの文を読んで、ちょっとでも『KUBO』が気になったらぜひご観賞ください。きっと後悔はしないと思う。君の心の弦が少しでも震えたら嬉しや。

ムーンワールド再訪記(13)現実とゲーム

今朝、「現実」と「ゲーム」の違いについてふと思いを馳せてみた。

その違いを端的に言うと、ゲームは多かれ少なかれ自らの意思で「始める」世界であるのに対し、

現実は自分の意思にかかわらず、すでにして「始まっていた」世界だ。

ゲームにおいて、体験する世界は(ある範囲内から)選べるが、現実は選べない。或るハードの電源ボタンを入れ、或るディスクを挿入する暇もなく、気付いたら我々は否応なしに「ここ」にいた。キャラクターメイキングもなく、キーコンフィグもなく、画面コントラストさえ変更できずに。無論、リセットボタンもない(「ある」と仰る方もいらっしゃるかもしれないが、ここでは「ない」としておく)。

ゲームにおいて、プレイヤーは「自己」として主体的に(あるいは受動的に)その世界に関わることができる。そこは他の娯楽(とは言いたくないが)ジャンル——たとえば映画や小説やマンガ——とゲームを分かつ特徴、というか本質部分だろう。前者において、我々は観客/聞き手となることを余儀なくされる。

そういう意味では、スポーツとゲームはかなり似ている。「e-Sports」なんて言葉が飛び交う現代では言うまでもないことだが。しかし、所謂スポーツにはボールとプレイグラウンドはあっても、移入する「身体」は存在しない。動かすのはあくまでも自分の身体である。自分の肉体としてゲームに参加する。それってやっぱり現実世界——人生と同じなのではないか?

ゲームにおいて、我々は自分の肉体ではない存在に自己投影し、「動ける」。たとえ、できることが選択肢の横に表示されている矢印を上下させるだけだとしても。狭い迷路の中で黄色い物体にゴマのようなエサを食べさせるだけだとしても。キノコを食べてひたすら右端を目指すだけだとしても。そうやって僕はこれまでゲームの中で、選び、動かし、動いてきたのだった。

我々は自ら「選ぶ」こと、自らの意思で「動く」ことをこの現実世界、すなわち「選べなかった世界」で体験するために、ゲーム(なるもの)をやっているのだろうか。そうかもしれない。あるいはそうじゃないかもしれない。だって、それなら現実世界だってそうじゃないか? そうかもしれない。

ゲームは遊戯だろうか?否。

ゲームは仮想体験だろうか?否。

ゲームは代替世界だろうか?否。

ゲームは現実に並行するもうひとつの世界であろうか?……留保。 

僕は大人になってから、現実世界とゲーム世界をよりはっきりと区別するようになったようだ。その変化は、22歳の時に『moon』から受け取ったメッセージとわりと呼応しているように思う。

「人生はRPGみたいなものだ」したり顔で言ってのける人がまれにいる。

そんな物言いが昔からあまり好きになれなかった。でも、たしかに人生とRPGは重なるところがあるのかもしれない。むしろそのくらいに緩く捉えておいた方が人生の本質に、あるいはゲームの本質に近づけるのかもしれない。わからない。

余談だが、ゲームの側が現実の側に対して「意識的に」干渉してくるゲームは、どのくらいあるだろう?

『moon』は間違いなくそういうゲームだ。また、『moon』に影響を受けた僕の知らないメタRPGにはそうしたものがきっと多々あるだろう。昨今、インディーゲームの類にもその手のものがたくさんあった。未だ強く印象に残っている『Undertale』もそういうゲームだった。未プレイだが『One Shot』もそんな感じだろう。有名作『ダンガンロンパ』もそんな感じで長い幕を閉じたと聞いた。

しかし、それらゲームを所謂「メタ」っていう枕詞に括るのはもはや時代遅れというか、何を言ったことにもならないはずだ。大事なことは、メタだろうとリアルだろうとフェイクだろうと、こちらがそのゲームから何を受け取ったか? いつだってそれだけだ。

それに『moon』は今や「メタRPG」でも問題作でもなく、ふつーに「古典名作」と言って良いはずだろう。そして、僕はまだまだこのムーンワールドに立ち帰ってくることになる。この世界から受け取れるラブとソウルがきっとまだまだたくさんあるはずだ。

よし、『moon』やろ。