めくるめくメルク丸

ゲームと現象学

「古典的ADV」がVRで描かれた時、何が起こるのか? 『Deracine(デラシネ)』は『Rez infinite』『Astro Bot』に続いてVRの新しい扉を開いた傑作である

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冒頭から結論めいた賛辞を述べることを許して頂きたい。

『Deracine(デラシネ)』(PSVR・2018年11月6日発売)は古典的ADVが、その姿を留めたまま奇跡的に到達したメルクマールであり、VRで描かれたADV」の最初のマイルストーンとなるべき作品である。だからこれを読んでくれているあなたには、このレビューを読む前でもいい。読んでからでもいい。プレイして頂きたい。心からそう願ってやまない。

何しろ筆者はさきほどクリアしたばかりで、「興奮冷めやらぬ」といった状態であり、まだ頭に血が上っている感は否めない。が、今作がこれほどの傑作となった理由と根拠を、以下できる限り冷静に考察してみたいと思う。

文責/ラブムー

 

『Deracine』に惹かれる、そして実際に手を伸ばすゲームファンの殆どは、筆者と同様、以下に挙げる3つのいずれか(あるいは全て)が購入動機となるのではないだろうか?

①本作が『NEBURA ECHO NIGHT』(PS2)以来、14年ぶりにフロム・ソフトウェアがリリースするアドベンチャーゲーム(以下ADV)であり、傑作Bloodborne(PS4)同様、社長でありディレクターである宮崎英高氏*1がSIE JAPAN Studioとともに手がけた最新作であること。

②本作が「PSVR専用」でリリースされる国内初の本格ADV*2であること。

③本作のプレイ環境が「PlayStation Moveモーションコントローラー2本必須」であること。

①について。

本作と『エコーナイト』『Bloodborneはジャンルもコンセプトも著しく異なる作品であるものの、通奏低音としての類似が認められる。その類似はフロム・ソフトウェア作品ならではのゴシック的アトモスフィアや、耽美的なグラフィックといった、表層的相似点に留まらない——或る作家が生涯持ち続ける「文体の一貫性」のような既視感に近い。フロムファンにとって、本作が上記2作品に深く関わってきた宮崎氏の最新作であることはDeracineに手を伸ばすうえで大きなきっかけとなるかもしれない。しかしファン以外にも虚心坦懐な心持ちでこの世界に触れてみて頂きたい。そこにはVRならではの、唯一無二のADV体験が確かにある。

②も筆者にとって今作をプレイする強い動機となった。

PSVRが発売してから先日で早いもので2年が経ったが、北米ストアでいくつか興味深そうなADVが発売されているものの(『ヒア・ゼア・ライ』など、野心的な作品の数本を国内でも購入/プレイすることができる)、国内外PSVR市場において、本作のような純然たる本格ADVはこれまでに1本もリリースされていないように思われる。PSVRという環境で国産ADVをプレイすることに飢えていたプレイヤーにとって『Deracine』はうってつけの作品となるだろう。

かねてより(その構造によって)「静的」なムードを纏ったADV作品は数多いが、今作は意識的な通奏低音としての「静けさ」に加え、「存在/非存在」の顕在(矛盾した物言いだが)をひしひしと感じさせる。それについて、ディレクター宮崎英高氏の以下の発言は今作を考察するうえで重要に思われるので、ここに引用する。

『Deracine』は)一般的なVRゲームと違い、すごく静かなゲームとなっています。¨実在する¨という感覚と¨実在しない¨という感覚をうまくコンテンツに落とし込めないかなと考えていたところが、本作を作るスタート地点でした。

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キャラクターが確かに「そこにいる」という感覚と、「これは実在するものではない」というアンビバレントな感覚の両立。そしてそこに顕れる齟齬こそがVRならではの体験であると宮崎氏は感じたようだ。

VRに初めて触れた時、「実在感」「非実在感」を同時に感じたという感想は――いささか語弊があるかもしれないが——VR体験者にとっては、意外なほど「まっとうな」所感に響くかもしれない。

しかし、その自然な感覚を最深まで掘り下げ、宮崎氏がVRならではの本格ADVに向かった結果、今作のような「何にも似ていない」オリジナリティに溢れた作品が生まれたことは瞠目に値する。

また、プレイヤーが『Deracine』の世界に実在する子供たちの目からはけっして見えない「妖精」たる存在であり、プレイヤーの居る世界には「時が流れていない」というユニークな設定は、VRでしか入れないこの世界に——「これしかありえない」と思えるくらいぴったりと——馴染んでいる。

Deracineは宮崎氏のVRに対する素直な身体感覚と、氏の持っている独特の時間感覚や過去フロム作品から脈々と受け継がれてきた「死」のイメージを纏ったゴシック的世界観(と言うべきか)が絶妙に結びついたことによって生まれた必然的かつ有機的な作品であると言えるだろう。

PlayStation Move(モーションコントローラー)2本必須」のインパクトも個人的にはかなり大きかった。

販売本数を考慮するなら(無視することはできないはずだ)、たとえ作品の魅力を幾許か損ねることになっても「Dual Shock対応」あるいはPlayStation Move1本でも操作可」といったプレイ環境を実現する方が(SIE JAPANスタジオ・プロデューサー山際氏の発言によると、それも一応は検討されたようだ)、より多くのファンに今作を届けることができるように思う。

しかし、宮崎氏は妥協しなかった。目先の販売本数よりもプレイヤーに本作を充全な形でプレイしてもらうことを選んだ。

「本作はVRで体験できる実在感・非実在感を、テクノロジーの限界としてではなく、世界観に落とし込んだものとして製作しているので、没入していただかないと意味がなくなってしまうと思いました。そのためPlaystation Moveを2本使うことにしました」

宮崎氏はプレスリリースで事も無げにそう語っている。だが、「こと」はそれほど簡単ではなかったはずだ。この発言に宮崎氏の経営者としてよりも、ゲーム職人としての頑なな矜持を強く感じないわけにはいかない。

くどいようだが、「PlayStation Move2本必須」という条件によって今作の購入/プレイを断念しかねないADVファン/フロムファンは(遺憾ながら)相当数いることが想像される。

それでもなお、PlayStation Move2本による操作に拘った宮崎氏の判断は正しかったと言えるだろうか?

商業面における妥当性に関しては門外漢の私には「わからない」というより他ない。しかし、今作のためにPlayStation Moveを2本揃え、最後までプレイしたいちファンとして、私は宮崎氏の判断を「絶対に正しかった」と言い切ってしまいたい。

だから声を大にして言いたい。

もしあなたがPSVR所持者で、このゲームに少しでも興味を抱いているのなら、ソフトとPSMOVE2本買ってプレイするのが賢明だ。

いや、これではまだ足りないようだ。

もしあなたがPSVR非所持者であっても、この作品に対して少しでも興味を持っているなら、PSVR本体を購入してでもプレイするべきだ。

案ずることはない、現在販売中のPSVRにはMOVEが(おあつらえ向きに)2本同梱されたセットが販売されている。「Move2本必須」という縛りが「この作品に触れてみたい」というプレイヤーの欲求をかえって強く駆り立てることを願う。今作にはそれだけの価値が充分にあるのだから。

そう自信を持って言えるくらい、Deracineは――そのクラシック・ゴシックなビジュアルと世界観からは思いも寄らないほど――「まったき今」を感じられる、エポックメイキングなVR作品だ。そして、そこにはモーションコントローラーによるプレイが大きく寄与していることは疑いえない

ゲーム開始直後、非物質的存在――「妖精」である筆者はまるで初めて肉体を得た魂のように、自分の両手をあちこちに動かしたり、引っ繰り返してしげしげと長いこと眺めていた。この「再生——身体的同期」の感覚は、モーションコントローラー両手持ちでなければ決してかなわない。「両の手」は実体を持たない妖精であるプレイヤーにとって、子供たちが存在している現実世界と関わるための唯一の媒介である。さらに妖精はこの2本の手によってのみ、目の前の世界に干渉することができるのだ

あるいはモーションコントローラー2本での操作は、不慣れなプレイヤーには、開始直後こそ混乱と困惑をもたらすかもしれない。しかし、プレイを進めるうちに、この世界に存在するにはこの操作形態しかありえないことが腑に落ちるだろう。

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また、主観視点のVRゲームにおいて常に懸念される「移動による酔い」という厄介な問題は「ポイントクリック&ムーブ」による移動方法と、おそらくは開発者による丹念なチューニングによって完全に解決されている。筆者の経験では、長時間プレイしてここまで全く酔わなかったVR作品は今作と『Rez Infinite』『テトリス エフェクト』くらいしか思い当たらない。VR世界において「酔わずに移動できる」ということが、いかに有り難い恩恵であるかを今回強く思い知らされた。

そしてプレイヤーが「実体を持たない妖精である」という絶妙な(そして必然的な)設定によって、セピアの色調、古めかしい洋館といった古色蒼然とした麗しい舞台装置、この古典的な移動方法に違和感やレトロ感は一切ない。繊細かつ濃まやかな物語とゲームデザインが驚くほど見事に補完しあっていることに何度でも深い溜息が漏れる。そしてプレイすればするほど、VRで古典的ADVをプレイする」ということの意義と素晴らしさが腑に落ちる。

最後に。

個人的に『Deracine』に物語と同じくらい――いや、それ以上に強く感動したのは、「この世ならざるもの」としてこの世界に(自然に)在れることだった。

どういうことか?

これまでのVRゲームにおいて、筆者は自分がけっして軽いとは言い難いPSVRヘッドセットを装着し、夜な夜なVR世界に入りこむたびに、興奮と同時に、ある種の違和感を絶えず感じていたように思う。たとえどれほどゲームに深く没入できても、心の(あるいは脳の)どこかに「自分はこの世界から切り離された現実世界のプレイヤーに過ぎない」という無意識的な「醒め」の感覚が拭い難く残っていた。

ところが、今作はプレイヤーが世界と時間からすっかり切り離された妖精である」という絶妙な設定によって、この抜本的違和感を「没入感」によって払拭するのではなく、「自分が妖精としてこの世界に存在しているとしたら」当然感じるであろう違和感を伴っているがゆえの自然な実在感(やはり矛盾した物言いだが、こう言うより他ない)」へと転換することに成功しているのだ。

その手腕があまりに見事すぎるため、つい見過ごされてしまうかもしれないが、これは驚嘆すべき達成であると考える。宮崎氏がVRに初めて触れた時に感じた「実在と非実在の狭間に居るようなアンビバレントな感覚」、そのまま「時が止まった世界とプレイヤーの必然的な関係」として生成し、やがて帰着するのだ。

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また、『Deracineの世界では時が止まっているばかりではない。登場人物への干渉によって、時はふいに動き出したり、また止まったり、進んだり、戻ったりする。ストーリー(その内容について、ここではいっさい触れない)は完全に1本道で分岐することはおそらくないが、分岐の必要性は感じない。この奇妙で美しくも哀しい時間の中に、物語の中に、世界の中に、子供たち、そして妖精たる自分が存在していることに大きな意味/意義がはっきりと見出せるから。

モーションコントローラー両手持ちによる操作にすっかり慣れて、屋敷の中を自由に動かせるようになったら、物語進行のことは忘れて、無心で歩き回ったり、庭先で歩を止めてみて欲しい。陽光煌めく空の下、木の上に登って周囲をゆっくりと眺めて欲しい。目の前にいる少年少女たちの目を奥まで覗き込んでみて欲しい。暗い部屋で老いたる校長先生の眼鏡をおそるおそる外してみて欲しい。

その時、死者が自らの幼少期を追憶する時のような淡く切ない思いがじわじわとこみあげてくるかもしれない。そんな風に、心の中の、自分自身でさえも簡単には触れられないような場所に、このDeracineはそっと触れてくる。

ゲームには、VRには空間を拡張するだけではなく、こんなやり方で人の心に触れる優しく強い力があるのか……その驚きは静謐だが、私の心をゆっくりと、確実に巨大な感動で満たしていった。プレイ前は想像もできかった驚きと、確かな喜びと、抗えない哀しみとともに。

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VR技術によって作られた作品は、我々を驚かせたり怖がらせたり興奮させたりするだけでなく、癒し、憩わせ、忘れてしまったことさえ忘れてしまっていたような心の奥の記憶を揺さぶることができることを『Deracine』は証明してみせた。

今作はPSVRにおけるマスターピースRez Infiniteや話題作Astro Botが開いたエポック・メイキングなやり方とは全く違ったやり方で、我々の心の内の新しい扉の鍵を開け、そっと押し開けてくれるだろう。心優しい少女のような、か細く長いその手で。

*1:宮崎英高 フロム・ソフトウェア代表取締役社長・ディレクター。代表作は『DARK SOULS』シリーズや、SIE JAPANスタジオとタッグを組んで制作した『Bloodborne』など。

*2:本格ADV 「本格ADV」を定義づけることは難しいが、ここでは電ファミ記事「Detroit: Become Human』は日本のアドベンチャーゲームの文法に興味がない──イシイジロウ氏が感じた葛藤と、自身の限界」のインタビュアーである福山幸司が同記事冒頭に記した「アドベンチャーゲームとは、コンピューター(ゲーム)から提示される情報をもとに、プレイヤーが行動を決定し、ゲーム側と対話するジャンルである」という定義を採用したい。また、『Deracine』が宮崎氏が述べたように「クラシックなテキストアドベンチャーよりのゲーム」であり、ある程度以上の尺を持った「中編作品」であることも、本作を「本格ADV」として捉える理由の一端である。

『KUBO/二本の弦の秘密』を観た

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もっと仰々しいタイトルもいくつか考えたのですが、やっぱりこれで。

『KUBO』を観た。こちらの期待を遥かに越える、まごうことなき傑作であった。

もはやこれで済ませても良いような気も……でもせっかくなのでもう少し書きます。

でも、このブログを読んでくれている有り難い方々にはこの世紀の傑作をぜひ観て頂きたいと密かに所望している私なので、物語上の所謂「ネタバレ」っぽいことを記すのは控えようと思います。この「物語」が短いながらもたいへん素晴らしい作品なので、その内奥に触れられないのはいささか残念ではありますが。

今作は粗筋のみを述べると、表面上は古典的な冒険譚・成長物語のようにも見えます。

三味線と語りの得意な主人公・KUBOは母親と平穏な毎日を送っていたのだが、死者を呼び戻す祭りの日、母との約束を破ってしまうことで父母の宿敵姉妹と遭遇する。主人公の出生にまつわるある種の呪い。その呪いを自らの手で絶つことは彼の宿命でもあった。

命からがら村から逃れ、出会った仲間たち(サルとクワガタw)と旅するKUBOは、仲間たちと心を通じ合わせながら、伝説の武具(×3)を集め、親の仇——その根源的存在「月の帝」とついに対峙する……。

ざっくり要約すると、そんなところでしょうか。

このような古来より語り継がれてきたような古典的物語が絶妙に、巧妙にアップデートされている構造はピクサー作品にも通底するものを感じます。そういえば今作、先日観賞したピクサー映画『リメンバー・ミー』に通じるところが幾分あるような。公開時期もかなり近かったし、計らずもピクサーとライカ(今作の製作スタジオ)何か相通じるところがあったのでしょうか。

『リメンバー・ミー』を観た - めくるめくメルク丸

『リメンバー・ミー』は、ピクサー苦手な僕も褒めざるを得ないほど良い映画だったけど、『KUBO』を観た後ではかなり色あせて感じてしまうのも事実。あれは観賞後、もう1度観たいとは思わなかったからな。『KUBO』はこの先何度でも観たいぞっ。

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物語に関してはこれ以上触れないでおくとして、のっけから驚かされたのがその「絵(映像)作り」。「ストップ・モーション・アニメーション(約3秒の映像に1週間!の撮影期間を要するそうです)」という手法の説明を読んでも、実際にどうやってあのようにして融通無碍かつ美麗な映像を作っているのか? 全くわからないし、想像/分析する気にもあまりなれないのですが、これがクレイアニメでもCGアニメでも実写混ぜアニメでも手書きアニメでも、まあ、手法はなんでも佳き哉。いや、良くはないのだけど大事なことは手法や製作期間じゃない。

そこに「表現された世界」にのっけから心底驚かされたのです。完璧すぎる。粋すぎる。心と眼にすんなり同調する。そこに1片の無駄はない。必要な画のみがある。そして物語のキーであるKUBOの三味線からは、物語そのものをぐんぐん前に進ませるような素敵な音楽が紡がれる。

最高の絵(映像)と、最高の音楽と、最高の物語。「最高最高」言うの厭なのですけどね。「最高最高は作り手に対して失礼だろ」とは最近よく思うことで。「どう最高なのか?」を書かなきゃいかんだろ、と。でも……。

『KUBO』を観た。そしてそれは自分にとって最高であった。今日は単純明快に始めて、単純明快に締めます。お許しあれ。機会あれば、次はもう少し冷静かつ有用な感想文が書けると良いのですが。もしこの文を読んで、ちょっとでも『KUBO』が気になったらぜひご観賞ください。きっと後悔はしないと思う。君の心の弦が少しでも震えたら嬉しや。

ムーンワールド再訪記(13)現実とゲーム

今朝、「現実」と「ゲーム」の違いについてふと思いを馳せてみた。

その違いを端的に言うと、ゲームは多かれ少なかれ自らの意思で「始める」世界であるのに対し、

現実は自分の意思にかかわらず、すでにして「始まっていた」世界だ。

ゲームにおいて、体験する世界は(ある範囲内から)選べるが、現実は選べない。或るハードの電源ボタンを入れ、或るディスクを挿入する暇もなく、気付いたら我々は否応なしに「ここ」にいた。キャラクターメイキングもなく、キーコンフィグもなく、画面コントラストさえ変更できずに。無論、リセットボタンもない(「ある」と仰る方もいらっしゃるかもしれないが、ここでは「ない」としておく)。

ゲームにおいて、プレイヤーは「自己」として主体的に(あるいは受動的に)その世界に関わることができる。そこは他の娯楽(とは言いたくないが)ジャンル——たとえば映画や小説やマンガ——とゲームを分かつ特徴、というか本質部分だろう。前者において、我々は観客/聞き手となることを余儀なくされる。

そういう意味では、スポーツとゲームはかなり似ている。「e-Sports」なんて言葉が飛び交う現代では言うまでもないことだが。しかし、所謂スポーツにはボールとプレイグラウンドはあっても、移入する「身体」は存在しない。動かすのはあくまでも自分の身体である。自分の肉体としてゲームに参加する。それってやっぱり現実世界——人生と同じなのではないか?

ゲームにおいて、我々は自分の肉体ではない存在に自己投影し、「動ける」。たとえ、できることが選択肢の横に表示されている矢印を上下させるだけだとしても。狭い迷路の中で黄色い物体にゴマのようなエサを食べさせるだけだとしても。キノコを食べてひたすら右端を目指すだけだとしても。そうやって僕はこれまでゲームの中で、選び、動かし、動いてきたのだった。

我々は自ら「選ぶ」こと、自らの意思で「動く」ことをこの現実世界、すなわち「選べなかった世界」で体験するために、ゲーム(なるもの)をやっているのだろうか。そうかもしれない。あるいはそうじゃないかもしれない。だって、それなら現実世界だってそうじゃないか? そうかもしれない。

ゲームは遊戯だろうか?否。

ゲームは仮想体験だろうか?否。

ゲームは代替世界だろうか?否。

ゲームは現実に並行するもうひとつの世界であろうか?……留保。 

僕は大人になってから、現実世界とゲーム世界をよりはっきりと区別するようになったようだ。その変化は、22歳の時に『moon』から受け取ったメッセージとわりと呼応しているように思う。

「人生はRPGみたいなものだ」したり顔で言ってのける人がまれにいる。

そんな物言いが昔からあまり好きになれなかった。でも、たしかに人生とRPGは重なるところがあるのかもしれない。むしろそのくらいに緩く捉えておいた方が人生の本質に、あるいはゲームの本質に近づけるのかもしれない。わからない。

余談だが、ゲームの側が現実の側に対して「意識的に」干渉してくるゲームは、どのくらいあるだろう?

『moon』は間違いなくそういうゲームだ。また、『moon』に影響を受けた僕の知らないメタRPGにはそうしたものがきっと多々あるだろう。昨今、インディーゲームの類にもその手のものがたくさんあった。未だ強く印象に残っている『Undertale』もそういうゲームだった。未プレイだが『One Shot』もそんな感じだろう。有名作『ダンガンロンパ』もそんな感じで長い幕を閉じたと聞いた。

しかし、それらゲームを所謂「メタ」っていう枕詞に括るのはもはや時代遅れというか、何を言ったことにもならないはずだ。大事なことは、メタだろうとリアルだろうとフェイクだろうと、こちらがそのゲームから何を受け取ったか? いつだってそれだけだ。

それに『moon』は今や「メタRPG」でも問題作でもなく、ふつーに「古典名作」と言って良いはずだろう。そして、僕はまだまだこのムーンワールドに立ち帰ってくることになる。この世界から受け取れるラブとソウルがきっとまだまだたくさんあるはずだ。

よし、『moon』やろ。

ムーンワールド再訪記(12)初夏のご挨拶

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ご無沙汰をしていました。

そちら、お身体と精神の調子はいかがでしょう。

こちらは1週間ばかり前から、季節の通奏低音ががらりと変わったのをひしひし感じて惑っています。急にあったかくなって、木々の緑が力強く万緑を漲らせるかの如く、意気揚々と生命力をはっしている。その速度と熱量にどうやらついていけてないっぽい。

先日は大通りを戸惑いながら仕事場に向かって歩いていましたら、巨大な蜂や鮮やかな蝶たちが「ここを先途」とばかりに飛び回っていて、逃げるように足早に歩いていたら、あるスポットでふいに濃い草いきれを感じ、大袈裟ではなく、これじゃここ(道端)で倒れてしまうぞ……

と少しばかり不安になって、両手で鼻と口を覆ったまま、職場までの道を小走りに急ぎました。すると、たまたまイベント的な何かが催されていたらしく、大通りにフォーマルな服に身を固めた楽団がずらりと整列しているのが見えました。指揮者がうやうやしくタクトをひと振り——賛美歌でしょうか? あからさまに神々しい曲がうら若き女性たちの美声とともに演奏され始めました。こういうことってそうはないので、老いも若きも店の人も客の人も、ずいぶん多くの方々が外に出てパレードを楽しんでいたもよう。僕もも少し体調が良かったら、立ち止まって、いつもとは違った街の違った空気を少しは楽しむこともできたのでしょうが。

そんなこんなで(叔母の口癖)、時節はいよいよ名実ともにまったき初夏のようです。

個人的なnervous話ばかりで恐縮ですが、僕はこの時期、梅雨前が昔からもっとも弱い。今年も例外ではなさそうです。夏風邪と何らかの花粉効果が相まって、数日寝こんでいました。今日も熱とリンパ炎でそこそこ苦しんでいます。けどまあ(旧友の口癖)、不調な時に猫丸、じゃない、寝こめることを心からありがたいと思うべきなのでしょう。

で、寝こんでいる時にもっとも有用なのが携帯ゲーム機と文庫本です。寝こむたびにそれを強く実感します。ここ数日は先日知人におかりした文庫本を読んだり、PS VITAのリモートプレイで『moon』を……ではなくて、先日購入したばかりの新しい3DSで『とびだせ どうぶつの森』に勤しんでいました。

ダメじゃん、それ。ムーンやっとけ、オレ。

と、もう1人の自分が苛立ち混じりのラッパーの口調で鼓舞してくるのですが、だって、おもしろいんだもの、どうぶつの森(それについてはまた別の場所で記す機会もあるだろう)。

っていうか、やってみてわかった。ぶつ森は『moon』はとても似ている。愉しさの本質要素に、双方通じるところがある。

その愉しさとは? ひと言で言えば、「その世界に住まうこと」。

っていうか、ぶつ森って『moon』に着想を得たんじゃないか?ってちょっといぶかしがっちゃったくらい。

っていうか(3度め)、もし『moon』のキャラと世界観で「どうぶつの森」ライクなネットゲームを作ったら、最高だろうな。互いのムーンワールドを行き来できて、プレイヤーは好きなキャラを選べて——王様とかヨシダとかガセとかアニマルでも——、服を買って着せ替えしたり、家を建てたり、部屋のインテリアコーデしたり、MDを交換したり、釣ったレアな魚を売ったり、ピクミンみたいなたくさんのカクンテ人を連れ回ってキノコの森の中を探検したり。今からでもいいからそういうの出ませんかね。絶対出ませんね。

それにしても、寝こんでいる間にぶつ森やっててつくづく思った。『moon』の世界設定とキャラ設定は(今更ながら)、なんて凄まじかったのだろうと。

まあ、ぶつ森には物語はあってないようなものだけど(物語性の「無さ加減」が魅力なのだから)、少なくともキャラデザに関しては『moon』の方がずっと優れてると思ったね。ぶつ森もさ、もちろんわるくはないっていうか、やっぱりとんでもなく凄いんだけど、どうもキャラが画一的なんだよな。個々の性格とか、あってないような感じだし。ほのぼのしてれば良いってわけではないだろう。まあ、でも小さな子がたくさんやるからな、あれは。ほのぼのしてなきゃいけないのかもしれない。

でもこう言っちゃなんだけど、『moon』は世界も物語もピリ辛なんよ。ある種の哲学でもあるし。そうそう、現象学者のエマニュエル・レヴィナスさんっていう御仁が言ってたらしいけど、「哲学はステーキ」みたいなもので、赤ちゃんに食べさせるものじゃないって。『moon』は流動食でもお粥でもないからさ、咀嚼して、栄養として摂りこむにはそれなりの努力と経験が必要なわけよ。わかるかなー。

……もうこの口調やめよ。

あ〃、読み直してみると、ここまで1730字は何も言っていないも同然じゃないか。deleteするか、けっこう迷ったのだが、せっかくだから残しておく。だいいち、deleteしても今日は新しいのをしたためる気力がない。そういうわけで、今日は自分を甘やかすことにしよう。

そういうわけで、気を改めて。

昨晩、数日ぶりに『moon』をやってました。けっこうな数のラブを集め、けっこうな数のモンスターのソウルをキャッチし、けっこうな数のMDをかけてムーンワールドをうろつき回っていました。そうして、このムーンワールドを出るべき時が刻一刻と近づいているのをひしひし感じていました。どうやらこの再訪記も、ろくでもないことばかりを記しながら、終盤を迎えつつあるようです。

(もうちょっと続きます!)

ムーンワールド再訪記(11)チドリアシ デ メドツイタ?

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こんにちワンワン、愛犬タオと私です。

すみません、今日はのっけから謝らせて頂きたい。

それというのも今日は(今日も、とは君まで言うな)すこぶる酔っぱらってゐるので(ワンダの店における兵士の如く)、ここ「再訪記」において、「同じゲームについて12回も記せばきっとこのへんまでは……」と、なんとなく設定していたメルク丸(とりまの到達点)に至ることはできそうもありません。

え、そんなこと誰も最初っから期待しちゃいない? そもそも、酔っぱらってるならブログなど記すなよ? そんな君ノ声が聞こえた、ような気がした。

しかし、ろくすっぽゲームが進まなくても、行為は無為よりもほんのちょっと優れている——という強引なモットーで日々運営しているので、ここはいっちょ、こけら落としめいた気持ちでやってみます。ただ、途中で机につっぷしてエンターキー押しちゃって中途半端に更新されちゃう、あるいは記事全消滅だけはどうにか避けたいモノです。

唐突ですが、ちょうど『moon』を再開したのと同時期に、これら文庫本を度々読み直していました。おもに入浴時。だから何だ? すみません。

翔太と猫のインサイトの夏休み―哲学的諸問題へのいざない (ちくま学芸文庫)

翔太と猫のインサイトの夏休み―哲学的諸問題へのいざない (ちくま学芸文庫)

 
レヴィナスと愛の現象学 (文春文庫)

レヴィナスと愛の現象学 (文春文庫)

 

どちらもすっごく面白い本なので、ちょっと簡単にご紹介します。

『翔太とインサイトの夏休み』は「小さな男の子が夏休み、部屋で哲学者の猫とひたすら哲学対話する」。語り口は平易ですが、内容はあまりにも「哲学」しています。初めて読んでから10年以上経っていますが、何度読んでも読み飽きる、ということが全くない。学問としての哲学ではなく、日常生活、人生の中で生きた哲学をしたい(あるいは必要な)方に強くオススメ。池田晶子さんのベストセラー『14歳の哲学』が響いた方にも。

『レヴィナスと愛の現象学』はエマニュエル・レヴィナスさんという仏哲学者(厳密にはフランス国籍のユダヤ人哲学者)の難解かつ融通無碍な思想を、彼の自称弟子であり著述家であり武道家である内田樹(樹でたつると読みます)氏がわかりやすく(かつ敢えてわかりにくく)解説というか、解釈して述懐している本。「愛の現象学」と、きわめてキャッチーなタイトルがついてますが、実際レヴィナスを知らない人(僕は知らなかった)にもフランス思想に疎い(僕は疎かった)人も「なんとなくわかったような気分」で読めるうえ、知への愛に溢れまくる内容です。

「副読本」というのでもないのですが、これらの本をたまたま再読していたことと『moon』を再びプレイしていることは、自分の中でゆるく結びついているようです。それについて——「それ」っていうのは、上記の本を読みながら『moon』をプレイして感じたことです——筋道立てて、シラフな語り口でうまく説明できれば良いのですが、今日はちょっとできそうもないので、先延ばしにします。

それで、今の僕にどうにかこうにか判るのは、

「自己と他者」「ライン(境界)を越えること」が、僕にとって、かねてからずっと大きな主題であるってことです。自己内テーマっていうか。あまりにもざっくりしてて、あまりにも本質的であるため、どのようなジャンルにおいても、そんなことをわざわざ明言するのも野暮(何を言ったことにもならない)って気もたっぷりしますが。

でも、上記2冊はそうしたことについてたっぷり記されています。あるいは「そこ」に導く導入の書になっていると思うのです。そして『moon』も「そこ」にきわめて自覚的な作品だと僕は思う——思うっていうか、これはもう自明。『moon』に内在するテーマとは「自己と他者」であり「境界を越えること」。そうでなくてもそういうことにしておこう。このことはどんなに酔っぱらっていてもしっかと心に留めておきたいとこ。

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そして、この『moon』というゲームを立ち上げることによって現出する「ムーンワールド」なる世界は、僕にとっては僕の内側に(元々)在る世界と、この確固とした(ように見える)現実世界の狭間あたりに位置しているように思います。それを掌握したい。リンボ(中間地点)から、見える世界と見えない世界をダブル・ブッキングしたい……そしてDASH(奪取)する。

ああ、何だか、「大風呂敷広げすぎ感」が出てきて参りました。

そろそろ今日は最後にします。早く寝たいので。

唐突に響くかもしれないけれど、ムーンワールドにおける全てのキャラクター・登場人物は「死者」であります。主人公である透明な少年以外は全員。いや、ある意味では透明な少年も死者なのかも知れない。そこはちょっと保留。

だから『moon』をプレイする者は死んだモンスターと、透明な少年と、ムーンワールド住民たちを全員、一切合切弔わなきゃならない。弔いは責務だ。ここムーンワールドに落っこちた瞬間から、プレイヤーはその責務を有している。現実において子宮からこの世界に産み落とされた瞬間、この世界に関わる権利と義務を得たのと同じように。

しかし死者を「本当に」弔うことは、それほど簡単な話ではないだろう。「他者」を真に近い場所で認識することや、私(君)が、私(君)のこの世界における独自性(一回性)を捉えることが(認識としても実感としても)それほど簡単ではないように。

ムーンワールドにおける僕が「透明」であることも、ムーンワールドが、ここ現実とゲーム世界の「中間地点」に位置していることも、『moon』というCD-ROMの中にムーンワールドが存在して、そこから出るためには現実のプレステ(初代プレステであれプレステ3であれ)から、その手でディスクを取り出すことも、そう簡単ではないだろう。

いや、そもそも、ディスクを取り出す必要はないのかもしれない。

なぜなら、僕はこれからもやり続けるから。この世界において。どの世界? これだよ、これ。今、コントローラーを握っているまったきここの話。いったい何の話をしているのかね? どうも気に入らんな。もっとさくさくとプレイして、ラブレベルを上げて、書き連ねたるって心構えはないのか。まあ、酔っぱらっているからしゃあない。

はい。

とにかく「それ」が SDカードであろうと、GD-ROMであろうと、ROMカートリッジであろうと、Blu-rayディスクであろうと、僕はその媒介を自分の手で引き抜くことよりも、この媒介の内において、この媒介のフェンスを越えること——それが僕にとってかねてより必要な、重要な、喫緊の所業であるだろうと思っている。そして今日はそろそろシャットアウトすることが、かの鳥男によって勧められている。

と、に、か、く。僕にわかってることは、近日中に『moon』を終わらせなきゃならないってことだ。とにかく来週中にはエンディングを迎えたい。迎えよう。とりあえずの「目処」が立って良かった。そうだね丸。