めくるめくメルク丸

行為は無為よりも、ほんの少しだけ優れてゐる。(バガヴァッド・ギーター)

ムーンワールド再訪記(11)チドリアシ デ メドツイタ?

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こんにちワンワン、愛犬タオと私です。

すみません、今日はのっけから謝らせて頂きたい。

それというのも今日は(今日も、とは君まで言うな)すこぶる酔っぱらってゐるので(ワンダの店における兵士の如く)、ここ「再訪記」において、「同じゲームについて12回も記せばきっとこのへんまでは……」と、なんとなく設定していたメルク丸(とりまの到達点)に至ることはできそうもありません。

え、そんなこと誰も最初っから期待しちゃいない? そもそも、酔っぱらってるならブログなど記すなよ? そんな君ノ声が聞こえた、ような気がした。

しかし、ろくすっぽゲームが進まなくても、行為は無為よりもほんのちょっと優れている——という強引なモットーで日々運営しているので、ここはいっちょ、こけら落としめいた気持ちでやってみます。ただ、途中で机につっぷしてエンターキー押しちゃって中途半端に更新されちゃう、あるいは記事全消滅だけはどうにか避けたいモノです。

唐突ですが、ちょうど『moon』を再開したのと同時期に、これら文庫本を度々読み直していました。おもに入浴時。だから何だ? すみません。

翔太と猫のインサイトの夏休み―哲学的諸問題へのいざない (ちくま学芸文庫)

翔太と猫のインサイトの夏休み―哲学的諸問題へのいざない (ちくま学芸文庫)

 
レヴィナスと愛の現象学 (文春文庫)

レヴィナスと愛の現象学 (文春文庫)

 

どちらもすっごく面白い本なので、ちょっと簡単にご紹介します。

『翔太とインサイトの夏休み』は「小さな男の子が夏休み、部屋で哲学者の猫とひたすら哲学対話する」。語り口は平易ですが、内容はあまりにも「哲学」しています。初めて読んでから10年以上経っていますが、何度読んでも読み飽きる、ということが全くない。学問としての哲学ではなく、日常生活、人生の中で生きた哲学をしたい(あるいは必要な)方に強くオススメ。池田晶子さんのベストセラー『14歳の哲学』が響いた方にも。

『レヴィナスと愛の現象学』はエマニュエル・レヴィナスさんという仏哲学者(厳密にはフランス国籍のユダヤ人哲学者)の難解かつ融通無碍な思想を、彼の自称弟子であり著述家であり武道家である内田樹(樹でたつると読みます)氏がわかりやすく(かつ敢えてわかりにくく)解説というか、解釈して述懐している本。「愛の現象学」と、きわめてキャッチーなタイトルがついてますが、実際レヴィナスを知らない人(僕は知らなかった)にもフランス思想に疎い(僕は疎かった)人も「なんとなくわかったような気分」で読めるうえ、知への愛に溢れまくる内容です。

「副読本」というのでもないのですが、これらの本をたまたま再読していたことと『moon』を再びプレイしていることは、自分の中でゆるく結びついているようです。それについて——「それ」っていうのは、上記の本を読みながら『moon』をプレイして感じたことです——筋道立てて、シラフな語り口でうまく説明できれば良いのですが、今日はちょっとできそうもないので、先延ばしにします。

それで、今の僕にどうにかこうにか判るのは、

「自己と他者」「ライン(境界)を越えること」が、僕にとって、かねてからずっと大きな主題であるってことです。自己内テーマっていうか。あまりにもざっくりしてて、あまりにも本質的であるため、どのようなジャンルにおいても、そんなことをわざわざ明言するのも野暮(何を言ったことにもならない)って気もたっぷりしますが。

でも、上記2冊はそうしたことについてたっぷり記されています。あるいは「そこ」に導く導入の書になっていると思うのです。そして『moon』も「そこ」にきわめて自覚的な作品だと僕は思う——思うっていうか、これはもう自明。『moon』に内在するテーマとは「自己と他者」であり「境界を越えること」。そうでなくてもそういうことにしておこう。このことはどんなに酔っぱらっていてもしっかと心に留めておきたいとこ。

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そして、この『moon』というゲームを立ち上げることによって現出する「ムーンワールド」なる世界は、僕にとっては僕の内側に(元々)在る世界と、この確固とした(ように見える)現実世界の狭間あたりに位置しているように思います。それを掌握したい。リンボ(中間地点)から、見える世界と見えない世界をダブル・ブッキングしたい……そしてDASH(奪取)する。

ああ、何だか、「大風呂敷広げすぎ感」が出てきて参りました。

そろそろ今日は最後にします。早く寝たいので。

唐突に響くかもしれないけれど、ムーンワールドにおける全てのキャラクター・登場人物は「死者」であります。主人公である透明な少年以外は全員。いや、ある意味では透明な少年も死者なのかも知れない。そこはちょっと保留。

だから『moon』をプレイする者は死んだモンスターと、透明な少年と、ムーンワールド住民たちを全員、一切合切弔わなきゃならない。弔いは責務だ。ここムーンワールドに落っこちた瞬間から、プレイヤーはその責務を有している。現実において子宮からこの世界に産み落とされた瞬間、この世界に関わる権利と義務を得たのと同じように。

しかし死者を「本当に」弔うことは、それほど簡単な話ではないだろう。「他者」を真に近い場所で認識することや、私(君)が、私(君)のこの世界における独自性(一回性)を捉えることが(認識としても実感としても)それほど簡単ではないように。

ムーンワールドにおける僕が「透明」であることも、ムーンワールドが、ここ現実とゲーム世界の「中間地点」に位置していることも、『moon』というCD-ROMの中にムーンワールドが存在して、そこから出るためには現実のプレステ(初代プレステであれプレステ3であれ)から、その手でディスクを取り出すことも、そう簡単ではないだろう。

いや、そもそも、ディスクを取り出す必要はないのかもしれない。

なぜなら、僕はこれからもやり続けるから。この世界において。どの世界? これだよ、これ。今、コントローラーを握っているまったきここの話。いったい何の話をしているのかね? どうも気に入らんな。もっとさくさくとプレイして、ラブレベルを上げて、書き連ねたるって心構えはないのか。まあ、酔っぱらっているからしゃあない。

はい。

とにかく「それ」が SDカードであろうと、GD-ROMであろうと、ROMカートリッジであろうと、Blu-rayディスクであろうと、僕はその媒介を自分の手で引き抜くことよりも、この媒介の内において、この媒介のフェンスを越えること——それが僕にとってかねてより必要な、重要な、喫緊の所業であるだろうと思っている。そして今日はそろそろシャットアウトすることが、かの鳥男によって勧められている。

と、に、か、く。僕にわかってることは、近日中に『moon』を終わらせなきゃならないってことだ。とにかく来週中にはエンディングを迎えたい。迎えよう。とりあえずの「目処」が立って良かった。そうだね丸。