めくるめくメルク丸

行為は無為よりも、ほんの少しだけ優れてゐる。(バガヴァッド・ギーター)

ムーンワールド再訪記(13)現実とゲーム

今朝、「現実」と「ゲーム」の違いについてふと思いを馳せてみた。

その違いを端的に言うと、ゲームは多かれ少なかれ自らの意思で「始める」世界であるのに対し、

現実は自分の意思にかかわらず、すでにして「始まっていた」世界だ。

ゲームにおいて、体験する世界は(ある範囲内から)選べるが、現実は選べない。或るハードの電源ボタンを入れ、或るディスクを挿入する暇もなく、気付いたら我々は否応なしに「ここ」にいた。キャラクターメイキングもなく、キーコンフィグもなく、画面コントラストさえ変更できずに。無論、リセットボタンもない(「ある」と仰る方もいらっしゃるかもしれないが、ここでは「ない」としておく)。

ゲームにおいて、プレイヤーは「自己」として主体的に(あるいは受動的に)その世界に関わることができる。そこは他の娯楽(とは言いたくないが)ジャンル——たとえば映画や小説やマンガ——とゲームを分かつ特徴、というか本質部分だろう。前者において、我々は観客/聞き手となることを余儀なくされる。

そういう意味では、スポーツとゲームはかなり似ている。「e-Sports」なんて言葉が飛び交う現代では言うまでもないことだが。しかし、所謂スポーツにはボールとプレイグラウンドはあっても、移入する「身体」は存在しない。動かすのはあくまでも自分の身体である。自分の肉体としてゲームに参加する。それってやっぱり現実世界——人生と同じなのではないか?

ゲームにおいて、我々は自分の肉体ではない存在に自己投影し、「動ける」。たとえ、できることが選択肢の横に表示されている矢印を上下させるだけだとしても。狭い迷路の中で黄色い物体にゴマのようなエサを食べさせるだけだとしても。キノコを食べてひたすら右端を目指すだけだとしても。そうやって僕はこれまでゲームの中で、選び、動かし、動いてきたのだった。

我々は自ら「選ぶ」こと、自らの意思で「動く」ことをこの現実世界、すなわち「選べなかった世界」で体験するために、ゲーム(なるもの)をやっているのだろうか。そうかもしれない。あるいはそうじゃないかもしれない。だって、それなら現実世界だってそうじゃないか? そうかもしれない。

ゲームは遊戯だろうか?否。

ゲームは仮想体験だろうか?否。

ゲームは代替世界だろうか?否。

ゲームは現実に並行するもうひとつの世界であろうか?……留保。 

僕は大人になってから、現実世界とゲーム世界をよりはっきりと区別するようになったようだ。その変化は、22歳の時に『moon』から受け取ったメッセージとわりと呼応しているように思う。

「人生はRPGみたいなものだ」したり顔で言ってのける人がまれにいる。

そんな物言いが昔からあまり好きになれなかった。でも、たしかに人生とRPGは重なるところがあるのかもしれない。むしろそのくらいに緩く捉えておいた方が人生の本質に、あるいはゲームの本質に近づけるのかもしれない。わからない。

余談だが、ゲームの側が現実の側に対して「意識的に」干渉してくるゲームは、どのくらいあるだろう?

『moon』は間違いなくそういうゲームだ。また、『moon』に影響を受けた僕の知らないメタRPGにはそうしたものがきっと多々あるだろう。昨今、インディーゲームの類にもその手のものがたくさんあった。未だ強く印象に残っている『Undertale』もそういうゲームだった。未プレイだが『One Shot』もそんな感じだろう。有名作『ダンガンロンパ』もそんな感じで長い幕を閉じたと聞いた。

しかし、それらゲームを所謂「メタ」っていう枕詞に括るのはもはや時代遅れというか、何を言ったことにもならないはずだ。大事なことは、メタだろうとリアルだろうとフェイクだろうと、こちらがそのゲームから何を受け取ったか? いつだってそれだけだ。

それに『moon』は今や「メタRPG」でも問題作でもなく、ふつーに「古典名作」と言って良いはずだろう。そして、僕はまだまだこのムーンワールドに立ち帰ってくることになる。この世界から受け取れるラブとソウルがきっとまだまだたくさんあるはずだ。

よし、『moon』やろ。