10月5日(金)

ふだんは「光陰矢の如し」、あるいはベルトコンベアーで運ばれる手荷物のように1週間が過ぎていくように思われるのだが、今週はやけに遅々とした歩みだったように感じる。「時間」に関する考察は、最近読み直しているトーマス・マンの代表的長編小説『魔の山』でも詳細かつ入念に記されていて、それは今読んでもたいへん興味深い。

「時間とはひとつの大きな謎である——」とマンは書いている。

無論、それだけでは何を言ったことにもなっていないが、その先に何が書いてあったのかは忘却してしまった。忘却の水。ともあれ、「時間」というテーマは「人生(life time)」という長い時間を費やして追求すべき価値のあるものであるように思う(言うまでもなく)。僕は「時間」を扱った小説や映画をこよなく愛してきたし、きっとこれからも愛するだろう。いや、「時間を扱った」という物言いは正鵠を失っているな。あらゆる活動は「時間」から逃れることができないように思うから。たとえ、それが一瞬間のうちに生まれた芸術であっても。絵画も写真も文学もヴィデオゲームも音楽も経済も労働も成長も死も恋愛も、総ては「時間」に関わってくる。意識されていてもいなくても。ただ、必要以上に「時間」に囚われてしまうことは、かえって時間を遠ざけてしまうことになるとも思う。時間について考えることは年を重ねれば重ねるほど難しい。「時間」なる存在とは無手勝流に、虚心坦懐に向き合いたい。そうすれば、いつか自分なりの時間論が芽生えてくれるかもしれない。こないかもしれない。

さて、何の話だっけ。

そう、今週、やたら遅く感じるという話。それはおそらく、先週ほとんど部屋から出ずに在宅為事に勤しんでいたことも無関係ではない、というか、それが主だった原因であろう。

しかし、ようやっと金曜日がやってきた。今日はこれから雨の中を都内まで整体治療に赴くことになっている。整体師さんに身体のあちこちを30分かけてメンテしてもらう。この整体師(厳密には治療師と言うべきだろうか)さんは母が数年前に偶然(あるいは必然的に)巡り合った人で、僕からするとかなり変わった人だ。姿勢に関するベストセラー本を出しているし、腕も確かなのだろうけど、おごったところは全然見受けられない。というか、自我みたいなものをまるで感じさせない。感情の起伏もなさそうに見えるし、虚栄心みたいなものもなければ、親しみみたいなものもほとんどない(数年間通っているけど、プライベートみたいなことはおろか、世間話も冗談も交わしたことがない)。そして治療中は時間の存在を忘れてしまうほど「動き」がない。とにかくないない尽くしの人なのである。

でも、30分(長い時は1時間)の治療を終えると、明らかに身体が楽になっているのがわかる。ゆえに、その確かな効用の実感を求めて片道1時間かけて2ヶ月にいっぺん、多い時は月に1度、彼の元に赴く。

しかし、僕は自他共に認める「超」が付くほどの出不精であって、できればこんな、瞳にほとんど映らない雨がしとしとと降り続いているような午後に、1時間も電車を乗り継いで(おまけに駅から徒歩10分かけて)そこまで赴くのは「面倒」という所感を越えて、「ありえねえ……」的笑いが漏れてしまうほど面倒なのである。

こういう時はとにかく「感謝」の気持ちを思い出そう、携えてみようと試みる。金曜、多くの人が会社やお店で(たとえ働きたくなくても)働いているような時間に、口を開くこともなく電車に1時間揺られ、30分間も身体を(痛みなしに)治療してもらうことができる。そして帰りは何処かに寄ってコーヒーやお酒を頂くこともできる。外食することもできる。いったい、この事態を「ありがたい」と言わずして何と言うべきか?

といったことに、こうしてブログみたいなものを記していると自覚することができる。なので、もうしばらくはこの稚拙なブログを記し続けてみたいと思う。たとえ誰も望んでいないとしても。このまま1ヶ月くらい書き続ければ、少しは今の自分の状態が把握できるかもしれない。できないかもしれない。それでは好い週末を!