本(なるもの)とゲーム(なるもの)について

今日はとくに記すことがない。いや、そんなこと言ったらいつだって記すことなどないのだけど……。

というのはたぶん虚言で、本当は記すことはありすぎてありすぎて溢れまくっている、はず。むしろ「ありすぎること」が問題なのだろう。砂浜に散らばっている(というかまさに砂浜を形成している)無数のけし粒の中から、「これ。」というのを意識的に(あるいは無意識的に)選び取って、それについて「よいこらせ。」と語り出すまでが大変なのだろう。

さて(とどうにか語りだし)、僕は所謂「ゲーム」の類いが大好きなのだが(所謂「スマホゲー」を除く)、最近はどうもゲームに対して気が乗らない感じがしている。ここまで気が乗らないのは、齢4○歳まで生きてきて、初めてかもしれない。

いや、そんなことはないか。過去2度ばかりそんな時期があったような気がする。しかし改めて考えてみると、世間的にこんな(年齢だけは)立派な中年男性と見なされる年齢までゲームなるものをやり続けてきたわけで、それはそれで驚嘆に値する事態だと思う。それなりに貴重な生き証人、あるいは「ちょっと引くわ系」として承認して頂きたい。

遡れば、4つか5つの時に電子ゲーム(任天堂『Game&Watch』に代表される携帯ゲーム機)に出会った時から今まで、私はほぼ間断なくゲームをやり続けてきた。たいていの同級生たちは途中で挫折、遅くとも30歳までにはゲームから卒業していった。しかし、私はこれからも続けるだろう。そこに自負とか誇りの類いはない。ほとんど。

ちなみに最近は『ASTRO BOT』(PS4)というVRゲームと『マリオテニス エース』(SWITCH)というゲームをやっている。

どちらも、幼少期の僕が涎を垂らして呆然と見入るに違いないゲームである。現在の僕自身も「隔世の感」をばりばりに感じながらプレイしている。しかし、にもかかわらず、ある種のゲーム・スランプを感じてもいる。この奇妙な所感についてはまたいつか後述するかもしれないし、しないかもしれない。

そして、ゲームと同じくらい続けてきたのが「読書」でR座読書館R(とくに意味はありません)。本を読むことも4つか5つの頃、実家の物置でやたら大きな書架の本を引っぱり出しては繰り、引っぱり出しては繰り……の習慣を身に着けてからこれまで40年間近く、僕の天性というか本分となっていた。しかし、ゲーム以上に他者と共有できないのが「読書」なる行為だと思う。正直、自分が愛読してきた本について誰かと語らうことが愉しみになるとは思わなかったし、今も思えない。読書はゲーム以上に個人的で、孤独で、あまりに分け隔てられた愉しみだ。

ともあれ、本なるものとゲームなるもの。この2つからは今生においては逃れられそうもない。また、逃れるつもりもない(たぶん)。僕にとっての「三ツ子丿たましひ」とはまさにこの2つのエレメンツである。

ただ、本にしてももゲームにしても、僕の好みは相当に偏っていて、狭量で、極端に限定されている。そういえば、食べものや飲みものの好みもそうだ。音楽も、絵画も、人間もそうだ。「偏っていて、狭量で、限定されている」。それが僕を僕たらしめている特質/性質のような気がする。そういう風に自己肯定する、ばりばりのegoである。このようなegoは、いつしかきっと気体みたいになって、遍く空へと還っていくべきだろう。心からそう思う。しかし、現在の僕がこのegoをegoたらしめ、egoらしく在り、egoを楽しんでいる限りにおいては、この偏りを楽しんでいたいと心から願うのだった。

ああ、冒頭で予感していた通り、何を記しているのかろくすっぽ掴めないようなego記述になってしまった。おやすみなさい。