めくるめくメルク丸

ゲーム/現象学/人生

This Feeling Never Die〜『テトリス・エフェクト』にビシビシ感じる水口哲也のブレない姿勢

f:id:lovemoon:20190212215328p:plain

先日、友人(PSVR非所持者・テトリス好き)が私の家にやって来て、『テトリス エフェクト』をプレイした。

彼は数時間後、ヘッドセットを外し、顔を赤々と蒸気させながら「いやー、VRってさ、知覚の扉を開く合法ドラッグだよな…」と呟いた。「テトリスが別次元のゲームになっちゃってるわ……」

いやー、なんて御座なりな感想だろうか……その時、私は端的にそう感じてしまった。口には出さなかったものの。

しかし彼が帰ってから、改めて思ったのだった。

『Rez infinite』や『テトリス エフェクト』に触れた者が、「知覚の扉」「合法ドラッグ」「別次元」と言う時、彼はどのようなコンテクスト(文脈)で、また、どんな実感に基づいてそうした言葉を使ったのだろう? そも、私はそうした言葉を確かな実感として得られているのだろうか? 

ビデオゲームについて、またVRについて語る時、我々はどんなに慎重になってもなりすぎることはない。使い古された、意味を「すっかり共有されている」と思いこんでいる言葉も、新しい磁場においてはまったく別の意味を生み出しえる。あるいは、そこには一見手垢のついた言葉であっても、現在の自分には未だ掌握できていない「拡張された感覚」が含まれていることも多いにあり得る……缶ビールをちびちび飲みながら自分を戒めた。

水口哲也の作品を体験した時、「言葉」を用いてそれを他者に伝えようとするのは(言うまでもなく)難しい。黙ってヘッドセットを被った(あるいは被ってもらった)方がどれだけ「話が早い」だろう?

「この感覚」を言語化しようとする試みなど、全くもって無意味かもしれぬ――『Rez Infinite』『テトリス エフェクト』をプレイした時、そのような無力感を強く感じた。それでも電ファミニコゲーマーに掲載された水口哲也インタビュー記事に貫かれた、「言葉にできない領域をどうにかして言語化する」意思と姿勢にずいぶん励まされ、鼓舞され、この体験を私もどうにかして文章化してみたい、と強く思ったのだった。

news.denfaminicogamer.jp

ここからは、上記水口哲也インタビュー記事にインスパイアされての『テトリス エフェクト』への個人的な所感を少し記してみたい。

冒頭で、私は自分の友人が漏らした『テトリス エフェクト』への感想を、いかにも陳腐なものに感じたと述べた。しかし、私自身も『Rez infinite』『テトリス エフェクト』の作り手である水口哲也を「VRが新しい知覚の扉を開く合法ドラッグである」ことに対してもっとも自覚的なゲームクリエーターのひとりである——そう固く信じていることを認めないわけにはいかない。古参のゲームファンとして、無邪気で素朴な感想を言うことが憚られただけだ。

しかもここ数年の水口哲也の仕事においては、もはや「ゲーム」という言葉を使うことは適切ではないのかもしれない、とも感じる(ただし、個人的には今後「ゲーム」について深く考察し、迂回し、熟慮した後、「やはり水口哲也は『超現役の』ゲームクリエイターである」という結論に至るような気がしてやまないのだが)。

『テトリス エフェクト』(私の場合)。

待ちに待った体験版を初めてプレイしてから2時間後、私が抱いた感想は「たしかに面白いけれど、『Rez Infinite』とはずいぶん違うな……」そんな所感だった。

あの超絶開放/解放体験 『Rez infinite』AreaXを初めてプレイした時の、重い身体感覚から自由になり、魂だけがアヨコスモス(全宇宙)に放りこまれたような未曾有の感覚は、ゲームなるものと関わってから30数年を振り返ってみても、5歳の頃に生まれて初めて電子ゲームに触れた時の体験と並ぶ、あるいはそれを越えかねない、空前絶後の体験だった。プレイ中、私は『Rez Infinite』を「ゲーム」とは認識していなかったように思う。それは自分が行為している対象が「ゲーム」であることをすっかり忘れる、未曾有の体験だった。これだけ長いことゲームなるものを続けてきて、ゲームからそのような感覚が得られたことに深く感動し、この作品を世に送り出してくれた水口哲也というクリエイターに深い感謝と共感を覚え、AreaXラストではほとんど泣いていたことがつい昨日のように感じる。

しかし360度に広がる(ように感じられる)視界を全身全霊で感じ、刺激的、かつ耽美的な電子音にすっかり身を任せてプレイする『Rez Infinite』と比べると、視線を目の前に展開するテトリス場に固定し、落下してくるテトリミノを凝視し、VR空間内でこの『テトリスエフェクト』を長時間プレイすることは、ずっと局地的かつノスタルジックな体験であるように体験版では感じた。

それでもその後、製品版を時を忘れるほどプレイしているうちに、『テトリス エフェクト』を『Rez infinite』と同列に並べることが間違っていたのだ……と腑に落ちる瞬間が訪れた。それは『Rez Infinite』のスペースから離れた場所にある階段を下り、「別の部屋」へ入っていくような体験だった。

その部屋の名前は『1/fスペース(ゆらぎの空間)』という。

「1/f」という言葉を御存知だろうか。自然界に存在する、無数の不規則なゆらぎ。五感で感じ取ることのできる、一定しないリズム現象「ゆらぎ」には、ある法則があるという。

「ゆらぎ」の程度が、1秒間に周波数fに反比例して分布している場合、つまり1/f(エフブンノイチゆらぎ)の状態である時、人はもっとも心地よく感じられると言われている。(リトル・プレス「1/f」より)

その部屋に展開する、視覚を刺激するビジュアルエフェクトやサウンドは、水口哲也らしい「ゆらぎ」に溢れている。では、「水口哲也らしさ」とは何か? これを言葉で表すことにもやはり激しい困難を感じてしまう。そこに「クラブカルチャー」という、これまた手垢のついた言葉を当てはめるのはあまり気が進まない。しかし、『Rez infinite』『テトリス エフェクト』からひしと感じるのはやはり「クラブカルチャー」から生まれた感覚なのだ、という感が否めないこともやはり事実なのだ。

ただし、その感覚に過去へのノスタルジーは一切含まれていない。かつてクラブカルチャーから生じた何か――それは感情だったり、体感だったり、高揚だったり、効用だったりするのだが――を、水口哲也がもっとも新しい技術と手法で目指し、獲得し、今も真っ直ぐに「そこ」に向かい続けているというまったきフレッシュな感覚である。

ここに少しだけ私事を挟ませて頂きたい。

90年代の終わり、私は都内の大学で哲学を学びながら、週末には大音量でテクノやハウスがかかる「クラブ」に足繁く通っていた。『マニアックラブ』『ROOM』『BLUE』……そうした現在は残っていない場所に夜な夜な足を運び、真夜中、爆音でテクノやハウスを全身に浴びる。音楽ですっかり酩酊し、見知らぬ客たちとダンスフロアで目を閉じたまま何時間も無心でひたすら踊り続ける。回り続けるミラーボールと刺激的なVJで視覚と聴覚は入り混じり、自分と他者の区別がつかなくなりそうな瞬間に度々襲われる。もうこれ以上踊り続けることはできそうもない……そんな状態で階下のチルアウト・フロアへ向かう。そこでは心と身体を癒してくれるアンビエント・ハウスが流れている。床につっぷしている者もいれば、気持ちよさそうに身体を揺らしているものもいれば、狂ったように抱き合っているカップルもいる。私はたいてい1人きりで、壁に映されている回転したり、点滅したり、色彩を変えるカラフルな幾何学模様をぼんやり眺めていた。部屋は効果的な音楽と照明とたゆたうように踊る客たちによってゆらいでいた。それはまるで母親の胎内に留まっているような感覚だった……。

大音量でハードなテクノが流れ続けるダンスフロアで、覚醒感を感じながら踊り続ける状態が『Rez Infinite』に重ねるとしたら、あのチルアウト・フロアで感じていた穏やかな波のような「ゆらぎ」の感覚は、まさに『テトリス エフェクト』で感じた癒しに近いものだ。もしあの時、あのスペースで『テトリス エフェクト』がプレイできたら、きっとずいぶん幸福な気持ちだったろうと思う。

「クラブカルチャー」のメインフロアには快楽と覚醒感があり、そしてチルアウト・ルームは――癒しとゆらぎに溢れていた。その頃、私は何か大きな扉めいたものを押し開けるためにクラブに通っていたように思う。その扉を無理に言語化するなら――それはやはり避けたい言葉なのだけど――やはり「知覚の扉」と呼ぶべきなのかもしれない。感覚を押し広げること、見えない(ように見える)、しかし、そこにあるかもしれない何かの存在に触れること、時間の幻想から逃れること、他者と自己がひとつになったように感じられること。

それは求道者ラム・ダスが師であるマハリシに求め、スティーブ・ジョブズが禅師・鈴木大拙に求め、ティモシー・リアリーやビートルズがLSDに求めた時代から脈々と続いてきた、「ここを離れ、次のステージに向かいたい」という根源的欲望の発露であった。しかし、そのような欲望を継承した「クラブカルチャー」は(少なくとも音楽的側面においては)新世紀の幕開けとともに少しずつ衰退し、終焉した、ように思われた。

 

いささか話が逸れるが、ゲーム業界において90年半ばに頭角を現した、水口哲也と同世代のクリエーターたちも多かれ少なかれ、「クラブカルチャー」への狂騒と失望を意識的に(あるいは無意識的に)世代的に、文化的にそれぞれ抱えていたように思われる。90年代クラブカルチャー全盛期に傑作『moon』(PS)を作り上げた西健一、『太陽のしっぽ』(PS)でプリミティブなサイケデリア憧憬を、『ディシプリン 帝国の誕生』(Wii Ware)でサイケデリックと90年代の功罪を自虐的に表現してみせた飯田和敏、『Dの食卓』(3DO、SS)『エネミー・ゼロ』(SS)でゲーム業界の寵児となった後、あまりに早く夭折した飯野賢治もまた、水口哲也と同じ磁場/時代精神を共有していたように思う。

水口哲也が彼らと一線を画すのは、「未来への確信を携えてずっと追い続けている」という点ではないだろうか。何を? そう、知覚の扉を。クラブカルチャーが一瞬垣間見せてくれた眩い光を。西健一が『ギフトピア』で進んだ「現実との折り合いの道」を、飯田和敏が『ディシプリン』で描いた深い絶望を、水口は描かなかった。

その代わり、水口が2001年に放った『Rez』は、彼なりのアグレッシブな解答だったように思う。そこには、「俺はまだトリップし続ける」そんな固い意思と姿勢が漲っていた。私は『Rez』をプレイ中、まっすぐにステージの奥へ奥へと進んでいくアバターに水口氏の姿を重ねないわけにはいかなかった。そのトリップこそが、未来へと繋がるまったき正道なのだ――『Rez』のアバターは誰もがクラブカルチャーの終焉を如実に感じていた頃に、大声でそう叫んでいるようだった。This feeling is still alive.この感覚はけっして死なない――と。

そして『Rez』精神的続編『Child Of Eden』を通して2017年、『Rez Infinite』で再び彼の新しい挑戦を体験した後、私が『テトリスエフェクト』から感じとったのは、『Rez』によって開かれた扉はもうけっして閉まることがない——そんな感動的な実感だ。水口哲也が開けたその扉はすでに開き、その空間は現実に流れこんだ。その空間は新しい未来への確信にみちみちている。そんな祝祭的なアトモスフィアの後の穏やかなゆらぎが『テトリス エフェクト』には溢れている。

『やっぱり「新しい体験を作りたい」という気持ちがいちばん大きいのですが、「それを『テトリス』でやったらうまくやれるんじゃないか」という直観が確かにあったんです。』(水口)

その時、幸運にも『テトリス』というクラシックなゲームが、水口が描きたかった体験を表現するのに適切な「ルール」と合致したのだろう。そのプリミティブなゲームデザインは「没我」と「共時性」という、水口哲也が描こうとしている主題と強い親和性を持った古典的作品であり、そこでは「テトリス」はシンボルのようなものだ。

そして主題は――テトリス場が浮ぶ空間そのものにある。その空間に描かれるのは、宇宙めいた空間だが、それは地球の外に広がる宇宙ではない。目に見える宇宙もまたメタファーに過ぎない。水口哲也は視界も聴覚も触覚も、さらに言えば生も死も「一緒くた」になった内的宇宙への旅に我々を誘っている。それを水口は「シナスタジア」と呼んでいる。

「本当は僕はVRの時代なんて早く終わればいいと、いつも思ってるの。」(水口)

『テトリス エフェクト』をプレイして巨大な「ゆらぎ」を感じている時、私は自分が本来の私にもっとも近しい私にじわじわとチューニングされていくのを感じる。VR空間で無心でテトリミノを繰っている私は、いつしかすっかり消滅している。在るのは空間と光と音だけだ。もう「ヒト」の形をとる必要のなくなった我々のイメージがそこに見えずとも、ひしひし感じられる。多分、きっと、絶対。